大竹村から袋山地先を迂廻していた元荒川の流路は、宝永二年(一七〇五)に荻嶋村地内で改修により直通された。このため袋山村地先の河川敷九町三反五畝歩が廃川となった。幕府はこの河川敷を払下げ、袋山村の名主佐次右衛門に、地代金二四五両で下渡すこととした。ところが再三の催促にもかかわらず、佐次右衛門はこの地代金を納めなかったため、正徳二年(一七一二)、幕府はこの河川敷を佐次右衛門から取上げ、代官伊奈半左衛門の差配に戻した。伊奈半左衛門は、河川敷が干上がり次第新田に開発する条件で袋山村預けとすることとした。これに対し、河川敷添いの大里・大林・上間久里・下間久里・恩間・大竹の六ヵ村は、佐次右衛門が地代金を納入して新田開発を行なうことには反対できないが、取上地となった以上、袋山村のみでなく、河川敷の半分を七ヵ村に預け、もし江戸町方、あるいは在方の者が、佐次右衛門と同額の地代金を納めて開発する場合に、直ちにその者に返却する旨を訴えた。これにより伊奈半左衛門は河川敷の半分を六ヵ村に配分することとした。
その結果、四町六反五畝歩余の地を預った袋山村では、この土地を百姓に割合い干上がり次第、新田に造成することとした。しかし名主の佐次右衛門は、この河川敷の百姓配分を認めず、我意を押し通した。袋山村はすべて畑地で、水田がなかったため、河川敷の開発地を百姓に割当てることを認めなかった佐次右衛門に対する小前百姓の怒りが爆発、正徳四年六月、名主佐次右衛門の不法を論難した次の様な訴えを代官所に提出した。
(1) 袋山村地先の河川敷半分が村預けとなり、干上がった場所から耕作を行なう予定でいたが、名主佐次右衛門の所有地先にも河川敷があるため、割当を行ないたい旨を申入れたところなにかにと我儘をいって拒絶している。このため支配役所に訴え、佐次右衛門を召喚して申渡したが納得せず、いまだに割当を行わないので一同迷惑している。
(2) 名主佐次右衛門組内の七郎右衛門が、病死した馬を従来からの馬捨場に捨てたところこれを咎め、支配役所に訴えるため組内の者に番人を命じた。死馬に番をつけるなどとは未だかつて例がない。
(3) 法度に背き、百姓の意見を取上げず、勧進相撲を興行しようとしたため、支配役所に訴え取止めさせたが、当年ばかりのことでなく度々このようなことがあるので百姓一同困窮している。
(4) 袋山村の草銭場は、名主平左衛門組では林として百姓割合となったが、佐次右衛門組では一人我儘を通され一同迷惑している。
(5) 佐次右衛門組の五郎左衛門が、十一年前から畑を屋敷地にし、家を建て住んでいたが、家が破損したため新築しようとしたところ、佐次右衛門はこれを許さず、古屋敷に戻るよう言い渡した。このため五郎右衛門は支配役所に訴え、見分の結果、主張が通って家を再建することが出来た。しかし、この一件は三年も経過するのに、佐次右衛門はいまだにこの時の済口証文を支配役所に提出せず、今後どのようないい懸りをつけぬとも限らず、甚だ迷惑している。
(6) 袋山村は高二三〇石の小村であるが、名主が二名もいるので迷惑している。ことに佐次右衛門は小前百姓を苦しめ、名主として適任ではないので、名主役を取上げて欲しい。
この訴状には、相名主である平左衛門をはじめ、惣百姓五四名が連署しており、佐次右衛門は村内で孤立した状態であったと思われる。この結果については、佐次右衛門の返答書や、裁許又は済口証文が残存していないので、結末については不明である。