砂原村の村方騒動

1048~1054 / 1301ページ

砂原村は高六七八石余、田畑の比率は七対三、戸数は六四戸(文政五年)である。はじめ天領に属したが、寛文二年(一六六二)旗本土屋氏の知行地となり、天和二年(一六八二)から堀田豊前守領、元禄十一年(一六九八)に六浦の米倉領となり、幕末に至っている。

 村役人は、世襲名主二人が年番で名主を勤め、名主を補佐する数人の組頭(年寄)が置かれていた。享保五年(一七二〇)組頭の一人六左衛門が、名主惣百姓を相手に争論をおこし、六浦藩役所ではこの争論に対し、六左衛門の組頭役を免じ、以後村政に関与しないよう申渡した。享保九年(一七二四)一月、砂原村の名主・惣百姓は、六左衛門を相手に藩役所に出訴した。その内容は、

(1) 砂原村組頭は三組に分け、各一名宛毎年十二月を限り年番勤めをする定めであるが、当番に当った六左衛門は、組頭役を拒んでいるので村中難儀している。

(2) 例年後谷・前原・砂原三村から、名主が年頭の挨拶として、領主の米倉家に午蒡(ごぼう)を献上する慣習になっているが、昨年の暮に六左衛門が砂原村の割当分を拒絶したので、他村の百姓が負担させられた。

(3) 昨年十月、名主が米倉屋敷に参上する際、送り番に当っていた六左衛門は、送迎を行なわなかった。

(4) 六左衛門は村内はむろんのこと、他村からも質地を取り、このため度々紛争を起しているが、このために名主や五人組の者が江戸迄出頭しても、送迎や出府の費用を出さず、迷惑をかけている。

(5) 昨年暮、日光門主通行の際、越ヶ谷宿から一軒につき馬一疋、人足一人の助郷割当があったが、六左衛門はこれに応ぜず、村方で雇人馬を出さねばならなかった。

(6) 六左衛門は、享保五年の争論で組頭を罷免され、村政に関与することを禁止されているにも拘らず、村の寄合協議に出席して、相談を妨害している。

というもので、六左衛門を一人百姓(村八分)にして欲しいと訴えている。そして、この訴訟に如何に費用がかかろうと、一切惣百姓で割合負担すると申合せていた。この結果、米倉家では、六左衛門に隠居を申渡したので、村方では、六左衛門の親類から今後一切相談相手にしないという約定を取り事件は落着した。

砂原の用水路

 元文元年(一七三六)五月、村役人層から村入用出銭割合について小前百姓相手に訴訟が出された。この事件は途中江戸宿の伊勢屋又兵衛が仲裁に入り、示談内済となったが、その扱い証文によると、

(1) 年頭の挨拶として例年領主に献上する土産品は、役冥加として名主・組頭が相応に負担し、残りを惣百姓が割合負担する。

(2) 名主組頭の江戸出府費用は、従来通り村中で割合負担する。

(3) 名主が御用・村用で出張の際、一里以上の道程には荷物の持運び人足の費用を百姓負担とする。近くの組合内の出張も従来の格式により費用は百姓負担とする。

(4) 名主が御用・村用で他出する際、人足持ですまない荷物のある時や、往復十里以上を日帰りする場合には人馬を百姓役で負担する。

(5) 公儀役人が村方に出張してきた時の賄い費用は、従来通り百姓の負担とする。

(6) 名主の役高引は三〇石で、これを超過した分は百姓並に諸役を勤める。

というものであるが、従来からの百姓役を確認するとともに、村役人の負担すべきものを確認している点が注目される。

 安永六年(一七七七)四月、村役人層を含む惣百姓が、名主を相手に訴訟を展開した。この時の出訴理由は、

(1) 砂原村の名主役引高は、名主が二名のため六〇石で、この分は惣百姓が負担している。近年諸役、ことに助郷負担が過重であるので小前層は困窮している。このため月番勤務である名主役を年番とし、非番名主の役引を行なわない様にしたい。

(2) 名主両名は当番・非番を定め、非番の名主は一切役向を勤めないので、急用の際に当番名主が他出不在の場合、御用向が延引し困惑している。

(3) 御用向の廻状を誤読し、余計な負担を百姓に懸け損害を蒙むっている。

(4) 組合寄合に出席する費用は、従前は名主の負担であったが、近年は百姓負担になっている。

(5) 名主が役用で出府する際、従前は悪天候か荷物のある時に途中迄送ったのであるが、近頃は御用毎に送迎する様になった。また名主の手作地の手伝いを権威をもって申付けたり、或は小遣い雑用等を事前に多く取立て御用を勤めている。

(6) 領主証印等を一度の出府にして済むべきところ、数度も出府し費用負担を増大させている。

(7) 畑方年貢を必要以上に徴収し、これを直ちに上納しないで名主が預かっている。

(8) 名主喜兵衛は百姓地を所有し、その分は伝馬役を勤めねばならぬところ、この分を三〇石の役引の不足分と相殺すると称し、滞納している。

 と主張している。これに対し名主側は反論の返答書を出しているが、その内容は、

(1) 近年諸役夥しく、特に助郷負担が過重で百姓が困窮しているというが、これは名主両人も同様である。

(2) 名主二名で当番・非番を定めているが、これにより御用向を延引させたことはない。

(3) 御用向の廻状を誤読し、余計な負担を負わせたことはない。

(4) 組合寄合に出席の費用は、従来名主の負担であったが、その後名主・組頭両名で出席することとなり、その際組頭が負担した。このため現在では寄合出席は一人となったが、費用は組頭から請取っている。

(5) 御用・村用の送迎馬は、従来からの慣習である。権威をもって農業手伝いを行なわせた事実はなく、江戸出張費は組頭から相応に割当て、諸出銭割合に関与したことはない。

(6) 先納証文は領主の意向をうけて印判を行なうものであり、人別印形は御用取込のため早急に出来ず、従って一度で用を済ませることは出来ない。

(7) 畑方年貢のうち荻島村入石百姓の分は、極月中に勘定が精算されるため、翌年三月迄預り上納しているのである。

(8) 名主所持の百姓地にかかる諸役は、名主役引の不足分と相殺することで組頭と交渉中であるが、それにも拘らず年番名主を百姓側から願い出ているのは納得出来ない。

と主張している。この結果六浦の米倉家役所で吟味が行なわれ、同年九月裁許が申渡されたが、その内容は次のようなものであった。

(1) 名主の役引は先例の通り高六〇石とする。

(2) 名主の交代勤めは先例による。非番の時も月番同様当番名主と申し合せの上、御用村用を差支えないよう勤める。

(3) 名主出張時の入用費や送迎馬は先例の通りとする。また名主手作地の耕作手伝いは相対契約とする。

(4) 畑方年貢金の超過徴収は、精算の都合上止むを得ない。しかし徴収金は手元におかず直ちに役所に納入する。

(5) 名主所持の百姓地にかかる諸役は、百姓と交渉が成立するまで名主の負担とする。名主役引の不足については先例による。

 この結果は、ほとんどが名主側の言分が採り上げられているが、しかし少しではあるが小前百姓の要求も通っている。このような小前百姓の抵抗により、従来不文律で処理された事柄が成文化され、世襲名主の権限が徐々に弱められてゆく傾向を窺うことが出来る。

 砂原村では、その後天保十二年(一八四一)から十三年にかけて、名主の交代を要求した訴訟出入が続けられていた。この出訴理由については明白でないが、砂原村前原組の小前百姓が、元名主の孫である貞八を名主役に推して米倉家に訴願している。米倉家では手続きの手落ちを指摘して却下し、再度の訴願にも現役名主の押印がないことを理由に受理しなかった。このため出訴人代表は、米倉家の分家にあたる米倉大内蔵に越訴をこころみた。しかし、この越訴の小前惣代の中に、貞八の縁者である無宿者の格太郎が参加していたことが判明し、取調べの結果格太郎は門前払い、他の一同も叱責にあった。また前原組百姓一同は現役名主や村役人に、心得違いの詫一札を入れて謝罪した。こうした経過にも拘らず、貞八擁立派の政右衛門・政五郎の両名は、再度米倉大内蔵に駈込訴願を決行、両名は越訴の罪により、領主から手鎖を申渡され、貞八は村預け、謹慎の処置がとられた。その後の経過は不明であるが、村内の対立はなお続けられたと思われる。