七左衛門村の村方騒動

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七左衛門村は高一一一九石余、戸数一一四戸(文政五年)、田畑の比率九三対七とほとんどが水田で占められている村である。江戸時代初期は天領であったが、寛文二年(一六六二)に土屋氏領となり、天和二年(一六八二)天領に復した。元禄十三年(一七〇〇)村高の内四八四石余が五人の旗本に分給され以来天領と旗本の六給支配となった。村の名主は始め世襲で、新田村の開発者会田七左衛門の血縁である会田氏や井出氏によって継承された。

七左衛門稲荷社

 元文五年(一七四〇)四月、江戸馬喰町の伊奈半左衛門役所の筒入に、七左衛門村名主八郎兵衛の不法を訴えた匿名の訴状が投げこまれた。伊奈家ではこれを重視し、同年六月、正式に訴状を提出するよう命じた。このため、七左衛門村では惣百姓連印の十三ヵ条にわたる訴状を提出した。それによると、

(1) 当村の新川縁りに開発地があったが、三〇年以前に御料・私領の氏子が寄合、鎮守の免田とした。この免田は藤右衛門が小作し、二俵の作徳米を鎮守の別当である観照院に納めていた。この免田は隠し田であったので、公儀に申出て登録するよう八郎兵衛に願出ていたが、これを承知せず、四、五年前から免田からあがる作徳米まで観照院に渡さず着服している。取調べの上鎮守免田として帳面に載せていただきたい。

(2) 七左衛門村は、四耕地・六耕地・七耕地の三耕地に別かれ、いずれも年貢は定免地である。元文五年の水害には、七耕地の被害が大きく、七耕地の百姓一同が破免検見願を八郎兵衛に申入れたが、壱耕地のみの破免願いは見込みがないと断り、世話料として米一〇俵を差出せば考慮してもよい旨、仲介人を通して申入れて来た。七耕地では筋の通らぬ要求に苦慮したが、結局承諾する旨を回答した。このため極月になると早速一〇俵の取立てを行なったが、私欲ばかりを計り、百姓を憐まない行為である。

(3) 七左衛門名請の田地は、従来家守を置いて管理し、年貢諸役を滞りなく勤めてきた。しかし、元文元年八郎兵衛が家守を請負ってからは、七左衛門より家作代金壱両弍分を請取りながら家守をつけず、年貢諸役を滞らせ百姓に迷惑をかけている。

(4) 四耕地・六耕地の百姓は、八郎兵衛から破免検見願の相談を請けたが、当年は平年作であるからその必要はないと断った。そこで八郎兵衛は七耕地から検見願が出ているので自分としては一緒に願出る積りである。ついては破免が通った時に、免引き分について引分を主張しないという一札を入れて貰いたいと要求して来た。これに対し定免より増分があったならば増分の割当をしないという約束ならば一札を入れるという返答をしたため、念書を入れるのを嫌った八郎兵衛は、如何なる事があっても今後破免願には応じないとして、検見を取止めてしまった。

  しかし、その後長雨が続き両耕地の稲にも萠腐れが生じたので、萠米願をするよう申入れたが、先の願の経過を意恨に思い願出てくれない。そこで是非なく赤山陣屋から出立する伊奈半左衛門に駕籠訴するとともに、検見役人にも出訴した。この結果検見役人から萠米願につき八郎兵衛に差紙があったが、得心せず百姓一同での萠米願を断念せざるを得なかった。八郎兵衛は後に萠米願をする積りであったが、百姓達が最初定免請をし、次に自分を差置い米願をしたのを意恨に思い、百姓一人一人から詫を入れさせた上で、ようやく願に罷出、萠米減免を行なうことがて萠出来た。このように諸事取扱い方が不親切で百姓一同難儀をしている。

(5) 大間野村圦御普請人足の扶持は、越ヶ谷領村々の御救として、幕府から給与され、大沢町の年貢米から受取るよう指示されているが、八郎兵衛はいまだに百姓一同に割渡さない。

(6) 囲置籾用の郷蔵について、八郎兵衛は蔵拵に多額の費用を要する新規の郷蔵建設を主張したが、百姓一同は、困窮のため費用を負担することは出来ない。一体郷蔵は囲置籾を紛失しなければ用が足りるのであって、百姓の中に丈夫な蔵を所持する者もおり、これを使用すれば、入用も要らず番人も充足出来る。この旨一応願出るよう頼んだが聞容れられず、百姓一同の願出により聞届けられた。これは八郎兵衛の相名主三郎右衛門の迷惑や、百姓一同の難儀を構わぬ我儘から出た事である。

(7) 五、六年以前、水呑百姓弥右衛門と名主八郎兵衛との間に金銭出入があり、訴訟沙汰になったが、弥右衛門は地借のことでもあったので、訴訟で争うのに難儀し、内済和解することにした。この時早速済口証文を提出のため、日時を定め役所に出頭したが、八郎兵衛は不参し、以後現在までに済口証文が提出出来ず難儀しているので、早急に解決出来るよう取計らって欲しい。

(8) 百姓源六所地の田地境に、八郎兵衛が新規の並木を植えたが、稲の成育上障害となるので、取払うようにして欲しい。

(9) 検地帳の写しは、先頃迄百姓方で所持していたが、近頃八郎兵衛が百姓方より取上げてしまった。従来通り百姓方で所持するようにして欲しい。

(10) 毎年の年貢割付状を、八郎兵衛は百姓一同に見せない。もっとも当村では帳元役と称する年貢諸役の割当を行なう数人の勘定役を置いているので間違いはないと思うが、割付状を見ないのは心許ないので、毎年見られるようにして貰いたい。

(11) 大沼流作場は村方で割合い所持するよう指示された。これにより御料・私領の村役人が立合い割当を行なったが、八郎兵衛は一存で割残しの田地を作り、問いただされるととやかく我儘を云って、未だ割合帳に印を押さない。今一度役向により割直しをお願いしたい。

(12) 当村は、小百姓や水呑が大勢で、小作人が多いが、小作田地は、不作の時に年貢減免があっても、小作料の引方はない。これは名主八郎兵衛が無慈悲で、他の地主迄差押え引下げさせず、このため難儀をしている。

と述べ、名主八郎兵衛の処置が悪いため「村方ニ出入等も絶え」ない状態であるので、八郎兵衛を取調べ、名主役を取上げれば「村方も相静り大勢之百姓相助り有難く存じ奉り候」次第であるということで、八郎兵衛の名主罷免を要求している。

七左衛門の村民が造立した承応3年の念仏供養塔

 この訴状を受理した伊奈半左衛門役所では、早速八郎兵衛に返答書を差出させたが、取調べは進展しなかった。このため百姓一同は、再三にわたり半左衛門役所に取調べの催促をおこなったが、埒が明かず、遂に翌寛保元年三月、評定所に直訴するに至った。評定所では直訴状を焼却し、事件を伊奈役所に差戻した。ここで取調べは本格的となり、翌寛保二年四月より五月にかけて、水野対馬守・河野豊前守両役所において吟味がおこなわれ、五月十九日に水野対馬守役所において神尾若狭守・河野豊前守他役人立会のもとに裁許が申渡された。それによると、

(1) 名主八郎兵衛は鎮守免田一件、御割付一件、大間野圦人足扶持一件、弥右衛門と金子出入一件の諸件につき、いずれも申分立難く名主退役、過料銭一〇貫文

(2) 相名主三郎右衛門は病身とは申せ、これら一件を注進しなかったのは不届につき名主退役、伜八郎次は名主代役を数年勤めるといえども不届につき手鎖所預け

(3) 源六・又右衛門は検見願の際、八郎兵衛方に米一〇俵差出一件無証拠につき手鎖所預け

(4) 稲荷免田一件は惣氏子不屈、但し免田地は御料所分であるので私領氏子は構いなし、御料所氏子四七人は過料銭一五貫文(一人ニ付三一九文宛)、免田は別当観照院持

(5) 百姓一同から拝見印形をとらなかった年貢割付状一件は、享保七年から元文四年までの割物年番二〇人に対し過料六〇貫文(一人ニ付三貫文)、元文五、六両年の割物年番六人に対し過料四〇貫文(一人ニ付六貫六六四文)

ということであった。なお手鎖所預けとなった八郎次、源六、又右衛門の三名は、その後親類ならびに観照院の歎願により一ヵ月後に赦免となっている。

 こうして一件は落着したのであるが、当時の七左衛門村は「当村之儀ハ小百姓水呑殊外大勢有之、小作仕候」という状況で、村内の階層分化が進行し、地主層と小作人層との間の利害の対立が烈しくなっていた。とくに小作人層の増大により、地主を中心とする村役人層の地位が大きく動揺し、従来からの権威を保とうとする名主に対し、名主を疎外して直接支配者側と交渉を進め、強い抵抗を示した小前百姓の動向は、村落内部の様相を徐々に変化させていった。この結果新田の開発者である会田七左衛門家の血縁に連なる旧勢力が大きく後退し、代って上組名主八郎左衛門のような、質地地主層である新興富農による名主交代がおこなわれるようになった。

 その後、七左衛門村私領所でも、宝暦六年(一七五六)五月に、名主亦右衛門の退役訴訟を起している。これは

(1) 村内流作場にある鬼子母神社地で、三笠付博奕を行なっていた。

(2) 亥の年貢米上納入用として、米一俵ニ付鐚一一文宛差出すよう要求したが、差出さなかったので難題を申懸けてくる。

(3) 屋敷内にて百姓一同の反対を押切って、晴天八日間の芝居興行を行なった。

としているが、この結果の詳細は不明である。