蒲生村の村方騒動

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蒲生村は元禄郷帳によると、村高一七八一石余の大村で、石高による田畑の比率九対一という水田地域である。文政五年の戸数二一七戸、村内は東西二つの区域にわかれ、東名主を大熊家が、西名主を中野家が勤め、それぞれ世襲していた。西地域は入国当初から天領であったが、東地域は当初忍の松平氏領、その後佐倉の堀田氏領であったようであるが、元禄以降はすべて天領であった。

蒲生清蔵院鐘楼

 宝暦年間、代官辻源五郎支配の時、村方に土地をめぐる争論が起り、永い間紛争が続いたようである。この詳細は不明であるが、このためであろうか、宝暦十二年(一七六二)勘定奉行一色安芸守・石谷備後守によって一村総検地がおこなわれた。この時の検地高は、一八二九石余で、元禄の打出し高との差は四八石余であった。この結果訴訟側の責任者とみられる太左衛門が追放、惣左衛門が五〇日の手鎖、相定方とみられる名主仁兵衛が名主役罷免、年寄が一人三貫文宛の過料銭、惣百姓お叱りという裁許であった。追放になった太左衛門は天明三年(一七八三)日光法会の際赦免、仁兵衛は天明九年家斉将軍宣下の恩典により赦免されている。

 いずれにせよ蒲生村では、この裁許によって名主が廃止され、村政の運営は一八人の年寄の年番によっておこなわれることになった。ところが、寛政年間に入ると、村役人相互の争いが激しくなり、再三にわたる訴訟沙汰におよんだ。その詳細は史料が断片的なため、明らかに出来ないが、おおよそ次のようなものであった。

 蒲生村の年寄役は裁許当時一八人であったが、その内一人退役、一人退転、残りの年寄の中でも年少者や小高の者、あるいは筆算の未熟な者もあり、実際に村役を勤められる者は少なかった。しかも年寄役は無給のため、代役を見立てようとしても、誰も応じなかった。したがって特定の者が継続して村役を引受けざるを得なかった。なかでも半右衛門は年寄役を永く勤める内に、名主のような地位にあったが、紛争が昂じて寛政七年(一七九五)に退役願いを出すに至った。

 しかし、この退役願書には同役一同の加判がなかったので、退役は認められなかった。すなわち、年寄役の中には、半右衛門の退役を迫る者と、支持する者の両派にわかれ、支持派が退役願書の加判を拒んだためである。この両派の対立は、以前から宗門帳の加印拒否をめぐる一件、村方勘定不正をめぐる一件、貯穀積替をめぐる一件などの紛争となってあらわれ、ことごとく村内を二分して争われていた。時には扱人が立入って示談内済に持込むこともあったが、これらは抜本的な解決に至らず、機会あるごとに大きな混乱をまねいていた。

 寛政七年の半右衛門退役願いをめぐる紛争の結果は不明であるが、その後半右衛門追及派の弥三郎が東名主となっていることから、反対派が村内の主導権を握ったものと思われる。