四条村の村方騒動

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四条村は高三六九石余、戸数三二戸、田畑の比率七六対二四の村である。はじめ天領であったが、寛文二年(一六六二)忍の阿部豊後守領地となり、以来幕末まで忍領であった。名主は代々久兵衛(飯島氏)が世襲し、村内に大きな影響力をもっていた。天明元年(一七八一)七月、久兵衛は、組頭藤助が村方の諸事取計らい方に、ことある毎に異議を唱え妨害するため、役目が果せない旨を申立て、名主の退役を願うとともに、藤助を訴え出た。それによると、

(1) 先頃退役願を出したところ、割役から取調べの上自分の願書、相手藤助の返答書、元組頭五郎兵衛他一名の返答書とも却下になった。これらの書類は後日のため写書を取って戴いたが、このような次第では退役したい。

(2) 先頃退役願を出したところ、割役へ藤助が答えたのには、返答以外は名主を取調らべて欲しいと訴えた。右の願書は却下されたが、藤助を下役にして置く事は出来ないので此度訴え出る次第である。

(3) 当春普請に際し、御普請役人宿泊入用を村方に相談もなく、名主持高にも高割に割掛け、このため名主役料が無くなってしまったので退役したい。

(4) 当普請は村請で行なうことになったが、仕様帳にない弍郷半領加藤村河岸からの材木引取人足を村方で助けるならば、木口・杭木・篝竹等の買上惣代を藤助が引受ける旨申出たのでその通り取計らった。その後普請に御手伝が付き割増金が下附されることとなったが、これを藤助が残らず請取ることを主張したので、当初になかったことであるから村方に割渡すことを主張した。村方惣百姓は訴訟に持込むことを要求したが、元組頭宇兵衛他が扱人に入り、結局村方と藤助が折半することとなった。

(5) 当普請は村方一同相談の上、百姓持高に拘らず水呑の者まで、一七歳以上はすべて人足を勤め、人足賃米、土俵縄等買上残金まで残らず出人足割に割渡した。ところが藤助は自分の一存で御普請役人の宿泊入用を石高割にかけて来た、普請金を人別割に割渡している以上、宿泊入用も出人足割にすべきであるのに高割としたため、入用割合に高下があり、この様な割当方では村方より異議が出、難儀をするので退役したい。

(6) 普請の際の土取場は、普請場所の近くに数多くあるのに、わざわざ久兵衛の所有地から土取したのは、私欲による畑成田を望んでいるからだと主張しているが、他の場所から土取をすると、元の通りに埋め戻さなければならないので、自分の畑を犠牲にして土を取ったのである。このことについては小前一同が承知している。

(7) 松苗木の伐取は、普請人足の足場に差障りがあるため、宇兵衛の差図にて伐取らせたものである。

(8) 堤通りの松の木が往来のさまたげとなるから伐取れというが、これは亡父久兵衛の存命中の頃からの植木で、当時はもとより現在まで苦情がなかった。それのみならず昨年の出水の際には、圦上にある松のために圦樋を水損から守ることが出来たくらいである。今更道行の障りになるとは不可解である。

(9) 堤防下の下草地は、はじめ下草代永を上納しなかったが、延享元年(一七七四)公儀役人の見分があってから上納することとなった。このたび藤助がこの草銭の増額を条件に下草地を引受けたいと申立てているが、現在まで下草代永の滞納もなく、堤下の畑所有者が堤先の地を所持するのが当村方の仕来りであるから、従来通りの形で下草地を所持したい。

(10) 御普請杭の長さを二間と定められたにも拘らず、藤助の一存で九尺の杭を使用した。これは全く藤助の不心得から出たものである。

ということであった。

四条神社
四条の河川敷