西方村の村方騒動

1063~1064 / 1301ページ

西方村は村高一五六八石余、田畑の比率八三対一七の水田地域にある。戸数は一六〇戸、はじめ天領であったが、寛文十一年(一六七〇)に村高一七三石余が旗本万年佐左衛門に分給された。延宝七年(一六七九)万年領を除く全村が古河領に組入れられたが、元禄十一年(一六九八)再び天領に復し、以来天領と万年領の二給地であった。このうち天領は西方組・田迎組・山谷組・藤塚組の四組にわけられ、それぞれ名主が置かれ、原則として世襲によって役目を引継いでいた。

 寛政年間に入ると、名主の専横に対する村内の紛争が表面化し、西方村百姓三九人が名主四人を含む一二人の村役人を相手に、私欲押領の名目で訴訟をおこした。この村方出入は結局寛政五年(一七九三)二月に示談内済となったが、その内容や経過は次の通りである。

 まず訴訟方の申分は、名主四人が年番交代で村政を勤めてきたが、一同馴合いをもって天明七年(一七八七)からの年貢や諸返納金を必要以上に徴収しており、しかも諸帳面を公開しない。ことに寛政元年の幕府の籾の買上げ代金は一両に付一石六斗五升宛であるのに、実際は一石八斗相場勘定で代金を割渡した。また高掛り年貢のうち、御蔵前入用は他村にくらべると余分に徴収しているし、寛政三年の破免検見には、四分八厘の年貢引であったのに、年貢仮免状をかくし、三分五厘三毛引の計算で年貢を取立てた。このほか、諸事村役人の取計らいに疑惑が多く納得できない、との趣旨であった。

 これに対し相手役人は、籾の買上代金が金一両に付籾一石八斗であったのはたしかであり、四組中それぞれ目べり分を計算に入れたが一率でなかったため混乱を招いたとみられる。御蔵前入用は諸掛りを含めて徴収したため、他村にくらべ余分に出金したように思われたのである。寛政三年の破免検見の年貢引は確かに三分五厘余であり、村内安養院で惣百姓がこのときの仮免状を拝見している筈である。天明七年以降の年貢や諸返納金を余分に徴収したようにいうが、これも年々の年貢割付や皆済目録を百姓に示しており、確認のうえ拝見惣代証文を支配役所に提出しているので間違いはない筈である、と反論していた。

西方大境旧道

 吟味にあたった奉行所では、双方対決のうえ、諸帳面の立会勘定調べを行なうことを申渡した。訴訟方と相手方はそれぞれ立会人を定めて対決に備えたが、当の立会人両人が仲介に立入り示談に持ち込んだ。この内済証文によると、西方村名主四人は従来通り名主役を勤める。別に訴訟方二一人(三九人のうち一八人脱落)で一組を作り、新たに名主を置く、ということで長い間争われた訴訟一件を取下げることになった。新設された組は大境組(第45表参照)とよばれたが、同年九月、西方村旧四組の村役人九人は、連署をもって大境組新名主助八と組合中に、六ヵ条の議定を示し村政運営の申し合せをとりかわした。それによると

(1) 諸上納物は、五組それぞれ割付通り、各組の責任において上納し、滞納などの場合にも他の組には面倒をかけない。また年貢割付や皆済目録の交付にあたっては、その度に一同立会のうえ受取り、公平明白に割当を行なう。なお割付状と皆済目録は年番名主が預かり、他組の名主は写しを取って置く。

(2) 領中村々の諸役出銭は、村内一同相談のうえ、高割合勘定をもって徴収するが、各組毎にとりまとめる。

(3) 幕府諸役人の出張に際しての宿泊入用は、西方村五組の廻り番勤めとし、当番の組が宿泊入用を負担する。ただし出役が特に旅宿先を指定した時は、その組の入用負担は別に考慮する。

(4) 名主その外村役人の順番勤めは月番勤めとし、その組の高に応じた割合の日数を勤める。ただし村役人の出張は、当番組で負担するが、その際の人足賃は全村の高割負担とする。

(5) 村内の用悪水路や道路橋梁の普請は、五組立会の上調査し、その組毎の高に応じながら順番に普請を施工する。

(6) 洪水などで村内の堤防が決潰した際は、組毎に名主、年寄が立会い、補強のための諸材料や防禦人足を速かに調達する。

とある。ここでは村落共同体が各組に分散し、組自体を主体的な行政単位に位置づけようとする動向が窺われる。

第45表 西方村新旧組高
高318石2升2勺 西方組
高381石9斗4升5勺 田迎組
高152石6斗1合8勺 山谷組
高155石5斗7升9合 藤塚組
高311石6斗8升5合5勺 大境組
高353石1斗6升2合 西方組
高477石3斗3升8合 田迎組
高250石6斗9升6合 山谷組
高240石8斗3升 藤塚組