万延二年(一八六一)二月、埼玉郡大房村の惣百姓五三人は、三年前に名主に就任した弥五左衛門を、役威に誇り小前百姓を見くびり勝手な取計らいをし、中には容易ならざる所業もあって捨置きがたいと、支配代官の竹垣三右衛門役所に訴え出た。それによると、
(1) 村方諸夫銭は、親の弥五左衛門勤役中は、一ヵ年高一石に付銭四〇〇~五〇〇文位で済んでいたところ、代が替ると銭七〇〇~八〇〇文以上となり、とりわけ昨年は一貫一〇〇文にもなる格別の負担をかけさせられている。しかも夫銭の帳簿類は一切見せない。
(2) 昨年九月、村入用として合計四一両も惣百姓から取立てたが、その使途が不明である。
(3) 昨年五月、越ヶ谷宿助郷二二ヵ村に、水災手当金が貸与されたが、当村分の割当が金七両一分永一一〇文で鐚五貫文不足しており、名主が押領したと思われる。
(4) 村内百姓勘右衛門・親類勝右衛門両名に、大沢町小村屋忠蔵方へ樫杵を売渡した一件につき不正があると火附盗賊改方より取調べの御用状が届いていると称し、金五両を出せば家業向に差支えないよう取計らうともちかけ、両名が不正の事実がないので断ると、強談におよび金三両二分を欺取した。
(5) 日光門主が、毎年六回日光道中を通行する際、小林・中嶋・増森三ヵ村の持場である往還掃除丁場を、当村の小前百姓が一年鐚三貫文宛で請負、掃除をおこなっているが、この賃銭を一四、五年程弥五左衛門が押領し割渡さない。
(6) 小物成御年貢は夏秋皆済分共一度に付金一一両宛上納して来たが、先代の弥五左衛門以来一度に付金一両宛、年三両余押領しているので難渋している。精算してこの押領分を割戻しするようにして欲しい。
(7) 当村百姓勝右衛門は、家屋敷廻りの弥五左衛門所持地上畑四畝一四歩と自己の所持地上畑五畝一〇歩の地を先年替地し、四畝一四歩の地に道巾九尺の道路を設けていたが、昨年再び相互の土地を交換、弥五左衛門所持地を借賃銭を出して小作していたところ、先月通路に柵を建て勝右衛門の通行を差留めたので難儀している。
ということで、弥五左衛門を召喚して、一ヵ条毎に吟味し、諸帳面を改めて不正を精算した上、同人を退役して欲しい旨を願い出ている。
この一件の経過は不明であるが、世襲村役人の金銭的な不正に対して、惣百姓の追求は厳しいもので、幕末の世相の一端を窺うことが出来る。
このほか荻嶋村では慶応元年(一八六五)、私領分の百姓から、組頭四郎左衛門が役職を利用して数々の不正を働いたことを地頭役所に訴えていたが、問題が表面化すると名主民蔵は退役を願い出た。このため私領分の百姓は村議定を改め、新しい名主と組頭を選出して村政の建直しをはかっている。
また越ヶ谷宿でも天保二年(一八三一)九月、本町組百姓が、宿場助成金の利息金を小前百姓に割渡さないことを理由に、組名主の小左衛門を勘定奉行曾我豊後守役所に訴え出、この結果組名主は名主役を罷免された。ところが、弘化元年(一八四四)には、この小左衛門が、公金押領を理由に当時の組名主次右衛門を奉行所に訴え出、両者とも手鎖などの罰に処せられている。