幕府の救済策

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寛保二年の水害は関東一円、とりわけ武蔵東部低地域の被害が大きかったが、西方村はじめ八条領地域は比較的被害が軽かったという。しかし食糧や種子を失なった人々のため、幕府は西方村にも夫食手当として、同年九月上旬に金一〇両、中旬に金六両を貸付けた。ただし手当をうけた者は、幕府に年貢を納める高持百姓に限られ、いわゆる水呑(みずのみ)といわれた小作百姓や地借・店借層は貸付の対象からはずされていた。

このときの西方村幕領分(西方村は幕領と旗本万年佐左衛門領の相給村)に支給された貸付額やその人数をみると、西方村百姓総戸数一一四軒、人数六七九人うち、浸水二尺以上の家六八軒、人数三七七人へ、一人あたり米男二合、女一合の割で三〇日分が代金で支給された。この償還は無利子による五ヵ年賦である。また、麦種子の貸付として総額金一三両一分のほか、籾種子九一石九斗一升五合の貸付が行なわれた。このうち籾種子の貸付は、三割の利息が加えられ、この代金八七両二分となったが、西方村では翌年から五ヵ年賦で返納したという。

 また幕府はこの水害によって破損した堤防や橋梁などの復旧のため、各大名に普請の手伝いを命じた。長州の毛利大膳大夫をはじめ八大名が手伝いを命ぜられたが、この普請総額は金二三万両、使用した人足は数百万人ともいわれる。このうち越谷周辺を含め、江戸川・古利根川・庄内古川・綾瀬川の水害復旧普請を担当した大名は肥後熊本の細川越中守で、その普請額は金六万九九四〇両、元荒川通り越ヶ谷宿までの担当大名は讃岐丸亀の京極佐渡守で、この普請額は金五二〇〇両であった。

 越巻村の「産社祭礼帳」によると、綾瀬川通りの普請は細川越中守が担当し、同年の暮から翌年の夏まで続けられたとある。この綾瀬川通りの復旧普請は、主に堤防の修復工事であったが、地元の困窮農民が毎日のように日雇人足に出ては日当銭を支給されたので、その日の飢を凌ぐことができた。なお越巻村周辺の普請金額は金七〇両ほどであったという。