天明六年の洪水

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天明年間(一七八一~八九)は、ことに天災が多かった。すなわち天明三年は六月中に大水があり、七月には信州浅間山の大爆発、加えて大冷害による東北・関東の大飢饉に発展した。ついで天明五年も大雨・冷害による凶作となったが、翌天明六年七月には西方村「旧記参」によると、〝古老の申伝えにもない〟程の大洪水が伊豆から関東にかけて襲った。

 この間の様子を『武江年表』によってみると、「七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水と成れり(中略)、小塚原は水五尺もあるべし、千住大橋往来留まり掃部宿軒迄水あり、本所深川は家屋を流す、平井受地辺水一丈三尺と云う、大川橋両国橋危ふく十六日往来留る(中略)、関八州近在近国の洪水はことに甚しく筆紙に尽しがたしとぞ、この水久しくたゝへたりしかば、奥羽の船路絶えて物価弥貴かりしとぞ」とある。

 さらに『徳川実紀』天明六年七月十七日の条には「まして郊〓の外は堤上も七、八尺、田圃は一丈四、五尺ばかりも水みち、竪川、逆井、葛西、松戸、利根川のあたり、草加、越谷、粕壁、栗橋の宿駅までも、ただ海のごとく、〓々としてわかず、岡は没して洲となり、瀬は変じて淵となりぬ、この災にかかりて屋舎・衣食・財用をうしなひ、親子兄弟ひきわかれて、ただ神社仏宇などの少しもたかき所をもとめ、からき命をたすかり」とある。

 またこの水害状況を、当地域の西方村「旧記参」によってみると、当年は六月から日照りが続き、田畑とも相応の豊作が予想される天候であった。七月十二日は朝からの快晴であったので、西方村の人びとは豆などの土用干をしていたところ、昼頃から俄かに西北の空から雷が鳴りだし大雨が降りだした。人々は〝よいおしめりだ〟とこの雨を喜んでいたが、大雨は翌十三日になっても降り止まず、十四日、十五日、十六日と降り続いた。このため耕地は勿論元荒川も満水となり村々では日夜水番を立てて警戒に当った。翌十七日も相変らずの大雨であったので心配していたところ、綾瀬川の上流上瓦葺村の見沼用水掛樋が押流され、見沼用水の押水が綾瀬川通りをひた押しに下ってきた。西方村をはじめ八条領村々は早速水防人足を西葛西用水東土手に集め、綾瀬川通りからの押水を防ぐため堤防の盛土作業にとりかかった。そのうち同日の夜になると、今度は利根川通りの堤防が所々で決潰し、幸手領・庄内領・松伏領・新方領一円が洪水になった。このため元荒川の水位は一きょに二尺余も高くなり、たちまち堤防通りを惣越して田畑や屋敷地に流入した。元荒川の水防につとめていた人々は、〝今はかなわぬ切れた切れた〟と叫びながら、水丈(たけ)の深くなった道を家に戻ったが、このときはすでに家々の床上に水があがり、家財や穀物を片付けるひまもなかった。

越巻付近の綾瀬川

 西方村の家々では、宝永元年と寛保二年の大出水にかんがみ、家の建替時にはそれぞれ適当に盛土をして出水にも心配のないように備えていたが、当年の出水は寛保二年の出水より三尺余の高水であったので、ほとんどの家が水につかったという。このときは西方村のなかでも大相模の不動尊境内だけ水があがらなかったので、多くの人馬が不動尊境内に避難した。しかしそれから約十日間も水が引かなかったので、この間避難人馬は境内にとじこめられたままであったという。

 また人びとの生活も、安永九年(一七八〇)の出水以来、天明三年と天明五年の大凶作に続き、当年の大出水で米価がいちじるしく高騰したため、困窮者が続出した。ことに大水後の暮から翌年春にかけては、江戸市中の米価は金一両につき一斗八升まで暴騰したため、多数の餓死者が続出したといわれる。このため天明七年五月を頂点に、京都・大坂・江戸をはじめ全国各地の都市では困窮者による打毀し騒動が激発した。この全国的な飢饉現象も天明七年の暮にはおさまり、米価も金一両につき八斗位までに復した。

 西方村では天明六年の出水によって田畑の作物が全滅したので、年貢は全免に近い納入で済んだが、その日の食糧や植付の種子に困り、幕府に夫食(食糧)や種子の貸付を願った。これに対し幕府は籾種子代金六四両二分、麦種子代金七両、それに夫食拝借七一二人分として金五八両余を貸与した。このうち籾種子・麦種子は、三割の利子が加算されたが、夫食は無利子であり、いずれも五ヵ年賦の返納であった。このほか西方村では、天明五年度にも幕府から種子や夫食の貸付をうけていたので、これを合計すると、総額金一七六両三分余の負債であった。

 こうして西方村農民は、ようやくその日の生計と翌年度の再生産の目途がついたものの、多額な負債を負ってその生産意欲は大きくそがれていたとみられよう。幸い当地域では当時商品作物としての蓮根・くわいなど、根菜の栽培が盛んであり、西方村では水害後栽培中のくわいに手入れを施した。ところがこれが当り、その年の暮から翌春にかけて、一荷につき銭五貫文あるいは銭六貫文の高値で売れたので、大いに生活の助けになったという。

 なお、越巻村「産社祭礼帳」によると、幕府はこの水害の復興に、松平大膳大夫をはじめ二〇大名へ御手伝普請を命じ、関東諸川の川浚いや堤防修復を施工させたが、綾瀬川通りの担当は松平大膳大夫と菊川監物であった。越巻村農民は綾瀬川堤防修復に日雇人足として働いたが、この人足賃一六両二分を前借りしてその日の飢餓をしのいだという。このため越巻村の人びとはこの御手伝普請を〝御救普請〟と称していた。