享和二年の水害

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天明六年(一七八六)の関東洪水後、寛政三年(一七九一)八月と、寛政五年七月にも大雨のため荒川通り熊谷堤等が決潰し、出羽地域や新方領地域が水害にあった。その他の年は低湿地帯の当地域にあっては、日照り続きのため、むしろ順調な豊作型天候が続いたという。しかし享和二年(一八〇二)六月二十七日からの大雨には、権現堂堤や熊谷堤が決潰し、関東一円の大洪水になった。『武江年表』によると、「六月霖雨、七月に至り本所深川辺洪水、所々橋落ちる、大川は両国橋のみ通行成る、武州権現堂堤押切といふ」とある。

 この間の状況を再び西方村「旧記四」でみると、当年は六月二十七日の夕方から雨が降り出し、二十八日・二十九日の昼夜三日にわたる大風雨が続いた。このため西方村の耕地は一面三尺ほどの水冠りになった。このころ風の便りで権現堂堤が三〇間ほど決潰したとの情報が入り、西方村では七月一日の夜から瓦曾根溜井に水番人足をだして警戒に当った。同月二日、三日のうちは元荒川の水丈は昼夜とも二時間に平均五分から一寸ほどの増水であったが、四日の朝になると俄かに四寸ほどの増水をみせたので、村中惣出で水防にあたった。このとき元荒川の下流八条領伊勢野村の堤防が六〇間ほど決潰したため、この逆水で西方村の耕地にも水が入ったが、大きな出水にはならなかった。一方切れ所の権現堂堤はその後、決潰所が拡大し約三〇〇間ほどの切れ所になったとの情報で心配したが、幸い元荒川の増水も徐々であったので水防作業が順調に行なわれ、人家の被害は免がれた。

 また耕地の被害も、八条領のうち堤防が決潰した伊勢野村周辺は皆損となったが、見田方・東方・伊原の各村が二割方の損毛、南百・柿ノ木・麦塚・青柳・蒲生の各村が五割方の損毛、西方・瓦曾根・登戸の各村が少々の損毛と一様ではない。このほか岩槻領村々が二割、新方領が八割から九割、谷古田領・幸手領の各領が皆損、越ヶ谷領が三割から四割方の損毛であったという。

 このときの水防費用を西方村の場合でみると、西方村では高一石につき銭一〇〇文の出銭と定め、村中高割合で徴収した。この水防資金は主に土俵に使う空俵や縄・杭木などの購入費用にあてられた。このうち空俵は八俵につき銭一〇〇文の相場で周辺の村々から買入れたが、この代金は金六両二分であった。ことに西方村は瓦曾根溜井地元の村であり、溜井廻りの水防には関係諸村から応援の人足や資材がよせられたが、西方村だけで人足延三二六人、空俵二二五〇俵、縄四五一房、杭木八〇本を負担した。

 なお西方村ではこの洪水による被害が比較的軽かったが、破免検見を申請して年貢の減免を願った。だが田畑の損毛は破免に該当しない九厘余の損毛と認定され、定免通りの年貢納入を申渡された。このため西方村の地主たちは、小作人に対し一反につき三升宛の小作料引きしか認めなかったので、困窮に苦しむ小作人一同は、小作料減免を願って奉行所に越訴をする小作騒動にまで発展した。

 結局この騒動は奉行所の取調べをうけたが、一人の科人もださず示談になった。示談の条件は、騒動の原因となった地主方から西方村の困窮者に米一五俵を供出して施米することであった。さらに翌享和三年の正月、西方村の大高持百姓四名が代官所に召喚され、奇特米一〇〇俵の供出を命ぜられた。この一〇〇俵のうち七〇俵は二郷半領村々の救援米に廻され、三〇俵は西方村困窮者に割当てられることとなった。このほか水難困窮者救助用として、村々の富裕百姓が幕府から米や金の供出を求められたが、当地域では、たとえば蒲生村の中野弥三郎が米七〇俵、瓦曾根村の中村彦左衛門が米一〇〇俵を享和二年の水難窮民手当として幕府に献納した。