享和二年以後しばらくは、当地域では大きな水害もなく経過したようであるが、文政六年(一八二三)と同七年に関東の諸地域は大水害をうけ、当地域にも被害があった。
『武江年表』によると、文政六年の記事には「五月十九日より近在出水、大川筋大水、熊谷堤切れ、久保村と云ふ処百余軒流れ、戸田川の渡し通路を止む、両国橋危く新大橋は半くぼみたり、小塚原地蔵尊膝の上迄水あり」とある。西方村「旧記五」によると、関東出水は六月十六日とあるが、この期日の差異は不明である。
文政六年の三月と四月は日照りが続き田植えに困る天候であったが、西方村その他の村ではきびしい番水を実施し、汲水などで田植をすませた。その後、六月上旬まで日照りが続き、田の草取りもできないほどで各所に水論がたえなかった。六月十五日になると、にわかに東北東の強い風が吹きだし、大嵐となったが、この嵐は十六日まで続いた。このため関東の諸川は急に増水し、ことに利根川の氾濫がひどく、上州館林領の堤防、ならびに忍領上中条の堤防が各所で決潰した。一方荒川でも秩父と熊ケ谷で堤防が押切れたため、この押水が綾瀬川や元荒川を襲った。なかでも見沼代用水通りの村々は大きな水害をうけたが、足立郡宮下村や榛子村(現浦和市)では堤防切割り騒動が発生し、多数の死者や怪我人がでたという。
このときの元荒川増水量を、元荒川通り瓦曾根溜井の定杭標識によってみると第47表のごとくである(西方村「旧記五」)。これによると、瓦曾根溜井の水位は、大雨のあった六月十六日が、平常水位より一尺六寸の増水であったが、八日後の六月二十四日に最高七尺四寸を記録し、それから九日後の七月四日に二尺九寸まで減水した。この間実に十七日間である。元荒川通り村々はこの増水に対処し、それぞれ水防作業につとめたが、西方村では八条用水路の水防だけで土俵四五〇〇俵、縄一四〇〇房を使用した。作業人足は、村中家別割で動員し、昼夜の別なく水防につとめたので、西方村では綾瀬川の押水が少々耕地に入った程度で大きな被害には至らなかった。
尺 寸 | |
6月16日 | 1・6 |
〃17日 | 1・8 |
〃18日 | 2・4 |
〃19日 | 3・3 |
〃夕方 | 3・9 |
〃20日 | 5・0 |
〃21日 | 5・5 |
〃22日 | 5・8 |
〃夕方 | 6・6 |
〃23日 | 7・1 |
〃24日 | 7・4 |
〃25日 | 7・3 |
〃26日 | 6・6 |
〃27日 | 6・3 |
〃28日 | 5・9 |
〃29日 | 4・8 |
7月1日 | 4・3 |
〃2日 | 3・8 |
〃3日 | 3・4 |
〃4日 | 2・9 |
この六月出水騒ぎのおさまった矢先の八月十七日、またまた東南風の大嵐があり、潰家が続出したうえ、六月出水時の堤防決潰箇所が再び押切れ、利根川と荒川の上流村々は再度の被害をうけた。ことに上州筋は異状な高水で、天明六年(一七八六)の大出水よりも、さらに一尺余の高水であったという。このときは、瓦曾根溜井の増水は意外に少なく、八月二十三日に最高九寸程増水しただけであったので、当地域に被害はなかった。それでも当年は旱魃・出水・風損と災害が重なったため、田方稲作は不作となり、西方村でも破免検見をうけた。
ついで文政七年七月二十三日・二十四日・二十五日の三日三晩の大嵐により、関東の諸地域はまたもや洪水にみまわれた。このときも上利根川や秩父荒川は異状な高水となって、所々の堤防が決潰したが、とくに熊ヶ谷堤は荒川上流の高水のため一面の惣越えとなった。また、上利根川通り上州辺はまれにみる洪水で古河城内に水が入ったほか、諸々の往来道が大破したため、翌文政八年に予定した日光参詣は延期になるほどであった。
山麓地域は間もなく水が引いて平常に戻ったが、上流地域の堤防決潰による押水が忍領に集中して流入した。このため綾瀬川ならびに元荒川も異状な増水となった。文政六年の高水を経験した両川通りの村々は、こうした高水に備え、堤防上に盛土をするなど堤の補強につとめていたので、大きな被害は免がれたが、綾瀬川では文政六年の高水より一尺余の増水であったという。このため尾ケ崎新田地内の綾瀬川堤防が決潰し、鈎上・野島・西新井地域の耕地が水を冠った。尾ヶ崎新田地内の堤防切れ所は、近辺村々から人びとが駆付け、堤防の築留めに成功したが、この間に耕地続きの越ヶ谷・瓦曾根・西方などの耕地にも水が入った。この押水は幸い濁水でなかったので、越ヶ谷・西方など綾瀬川から離れた地域は稲の立直りが早かったが、綾瀬川通りの耕地は水が深かったため、文政六年度の水害より大きな被害をうけ、二年続きの水難に村々の困窮はさらに加わったという。
また古利根川の下郷二郷半領は、文政六年度は古利根川上流の堤防決潰で水難をまぬがれたが、文政七年は中川通りの高水によって耕地に水が滞溜し不作になった。元荒川通り村々も、処々の耕地に水が滞溜し同じく不作であり、関東一帯にわたって被害箇所が多かった。このため七月までは米値段は金一両につき米一石五升であったのが、八月には米八斗台に高騰した。だが他地方の豊作から間もなく金一両につき一石前後の相場に戻ったとある。
なお、この大水のときの瓦曾根溜井標識杭が示した元荒川の水位は、元荒川上流蛭田村の堤防が押切れたためか、思いのほか水位が昇らなかった。それでも西方村では土俵一四八二俵を使って昼夜溜井廻りの堤防補強につとめたという(第48表参照)。この溜井廻りの水防材料は、溜井水下の各領村々も割合負担をすることになっており、溜井地元西方村ならびに瓦曾根村がこれを適宜必要に応じて使用した。使用した材料はそのつど普請役人に見分をうけ、役人から使用切手をうける。各領村々はこの使用切手にもとずき、それぞれの割合で材料を負担する仕組になっていた。
享和2年 | 土俵3,200 | 縄 451 |
文化3年 | 〃 405 | 〃 135 |
文化4年 | 〃 500 | 〃 180 |
文政6年 | 〃5,760 | 〃1,866 |
文政7年 | 〃1,482 | 〃 600 |