弘化三年の水害

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文政度の水害後、天保四年(一八三三)から同七年までは冷害による東北・関東の飢饉となって、人びとは苦しんだが大きな水害はみられなかった。

 しかし弘化三年(一八四六)は、六月から七月にかけて関東の諸地域がまたもや大洪水にみまわれた。『武江年表』によると、「夏の半ばより雨繁くして晴れる事稀なり、六月下旬大雨弥々降り続き、洪水溢れ出て下総羽生領利根川通り堤の辺九尺余りと聞きしが、二十八日子上刻、葛飾郡権現堂村より六里上、本川俣村堤切れ洪水漲り出、千住辺家屋を浸し、小柄原の石地蔵肩より上のみあらわる、箕輪の辺一時に水溢れ、床の上三尺ばかりに及ぶ、住居ならずして外へ逃退くとも溺死のものもありしとぞ、日本堤より見るに蒼海の如し」とあり、江戸の被害も大きかったことが知れる。

 この間の様子を、越ヶ谷本町内藤家「記録」によってみると、この年は六月十一日から降りだした雨は、六月十八日に一日だけの晴れ間をみせただけで、七月九日まで断続的に降り続いた。この大雨で六月二十一日には古利根川が氾濫し、大川戸村から松伏領・二郷半領・東葛西領が水につかった。続いて六月二十八日には利根川通り川俣堤防が決潰、六月晦日には南篠崎村の堤防が押切れて、羽生領・幸手領が大洪水になった。越谷地域は堤防決潰などによる直接の水害がなかったが、六月三十日の夜から元荒川の増水を警戒し、越ヶ谷町でも昼夜水番人足をたてて水防につとめた。

御殿町付近の元荒川堤通

 水防分担区域は、越ヶ谷本町の一番組が、四町野道から角善(屋号)裏まで、二番組三番組が角善裏から新長屋通りを経て御殿の馬洗場まで、中町組が馬洗場から袋町六本木まで、新町組が六本木から瓦曾根村境までという割ふりであった。このうち新長屋通りの元荒川堤防には土俵を二俵づつ重ねたが、下の一俵が水につかった。御殿の源左衛門脇から袋町上り口までは、四俵づつの土俵を積重ねたが、下の二俵に水がつかった。袋町上り口から六本木までは二俵づつの土俵を積んだが、土俵の下すれすれの水であった。このほか予備の土俵を数百俵こしらえて氾濫箇所の水防に備え、町役人も昼夜の別なく交代で水番の監督にあたったので、越ヶ谷町は水害を防止することができた。

 このときの越ヶ谷町の水防費用は総額銭四〇八貫六二八文に及んだ。その内訳は水防材料が空俵五五一八俵、ほか縄・莚・杭木などであり、水番人足には昼夜交代、一人あたり銭一〇〇文を手当した。この水防費用の調達は、高一石につき銭二五七文二分の高割で町民に割当て徴収したという。

 また、幕府では被害の大きかった幸手領方面に代官青山録平を、葛西領方面には代官斎藤嘉兵衛を派遣して被災者の救済に当らせた。救済のため現地に出向いた代官一行は、江戸川その他の河岸に備えた茶船をことごとく御用船に徴発し、避難者の救助にあたった。これら救助民は、幸手方面では杉戸・幸手両宿に御救小屋が建てられて収容され、施米が実施された。また葛西方面の避難者には江戸の馬喰町御用屋敷内に御救小屋が設けられたが、このほか当分の間、江戸の旅人宿数百軒に救助民が収容された。幕府はこの宿料として、旅人宿一軒あたり銭一貫文づつを手当したという。

 一方被害の少なかった越ヶ谷町には、幸手宿出役中の代官青山録平から、被災者救助のため、米二〇〇俵の供出を命ぜられている。これに対し越ヶ谷町は困窮を理由に供出の減少方を嘆願し、米一〇〇俵の献納を許されたので、本町四〇俵、中町二〇俵、新町四〇俵を出し合い、翌九月御用札を立てた馬に米俵を積んで幸手宿に送った。なおこの年の出水は容易に水が引かなかったが、ことに二郷半領では八月まで水につかったままであったという。