安政六年の水害

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弘化三年の水害後、嘉永二年(一八四九)八月にも出水騒ぎがあったが、安政六年(一八五九)七月から八月にかけての風雨は、越谷周辺に大きな被害を与えた。この間の様子を越ヶ谷本町内藤家「記録」、ならびに越巻村中新田「産社祭礼帳」によってみると、次のごとくである。

 安政六年七月二十三日から降り続いていた大雨により、七月二十五日に小針領備前堤が決潰した。この押水によって上瓦葺村の見沼用水掛樋が押流され、綾瀬川通り一帯は洪水になった。元荒川も近年にない高水となり、七月二十六日には越ヶ谷本町新長屋通り堤防から川水が溢れ流れた。

 越ヶ谷町ではこの溢れ水を徹夜の土俵積上げ作業で防いだが、翌二十七日には川水がさらに一、二寸程上昇したので、堤防補強を一層急いで実施した。二十八日になると、こんどは越ヶ谷町の対岸、花田村の俗称むし歯稲荷の堤防と、小林村川巣圦付近の堤防が危険にさらされた。このため花田村や小林村では破堤に備え、天嶽寺で早鐘を乱打して全村総動員の警備態勢をしいた。翌二十九日になると事態はいよいよ悪化し、ついに花田村の新土手そのほか処々で土手が切れ、花田村耕地をはじめ新方領全域は水につかった。古利根川通りも堤防の切れ所が多く、松伏領・二郷半領もたちまち水につかった。

 一方元荒川の高水防禦に成功した越ヶ谷領や八条領も、こんどは綾瀬川通りの押水で背後から水をうけ大洪水になった。このため越谷地域は四面あますところない大海と化したので、日光道往来の旅びとは上り江戸行きが瓦曾根村の角久(屋号)前から草加まで、下りが大沢町の町はずれから粕壁まで船で継送られた。この船はいずれも農家の船で、相対による船賃であったという。

地蔵橋付近の逆川

 また、大沢町鈴木家の「記録帳」によると、安政六年七月二十三日大雨、二十四日雷をともなった大雨、二十五日東北の風強く大雨、二十六日元荒川大水、男子は残らず明俵や丸太を持ち、堤防の補強作業、同日岩槻領長宮地内の元荒川決潰、二十八日七ッ時(四時)元荒川通り上の堤防、そのほか照光院前堤防が切れ大沢町大水、四ッ半時(十一時)大沢町の家屋はいずれも貫(ぬき)の下庇(したひさし)のあたりまで水につかる。八月二日船で畑の大豆抜き、水丈は胸のあたりまであった。八月三日夜葛西用水通り(逆川)観音坊堤切れる。大沢・大房・大林・大里の人びとが切れ所築留のため大沢町地蔵橋に集合したが手がつけられない。八月十日船に乗り稲刈り一反につき米七斗の収穫、同日南風はげしく観音坊堤再び切れ二番水が入る、と記している。

 これらの記録からみると、越谷地域の水害は、江戸時代を通じ安政六年の大水が、もっとも被害の大きかった水害のなかの一つであったようである。しかもこの年は、水難を少しでも軽くしようとして堤防を切割ろうとする上郷村々と、それを阻止しようとする下郷村々の対立騒動が当地域にも発生した。すなわち葛西用水通り鷺後用水路(逆川)堤防の切割りをめぐり、大吉・弥十郎村など上郷村々と、増林・花田など下郷村々との対立が騒動にまで発展している(越谷市史(三)八〇三頁)。

 その後、元治元年(一八六四)八月の大水にも、荒川通り熊ヶ谷堤が決潰し、元荒川と綾瀬川通り村々が被害をうけている。また慶応四年(一八六八)の七月にも大雨があり越谷地域の耕地に水が滞溜して不作となった所が多かった。

 以上みてきたように、越谷地域は武蔵東部の低地に位置していた関係上、大雨のあるたび、諸川の氾濫による押水をうけ、地域によって被害の程度はことなったがしばしば水害に襲われていたのである。