文化十三年三月七日夜、大沢町は元荒川の対岸四町野村からの飛火により、折からの烈しい南風にあおられて約二〇〇軒類焼の大火になった。前年文化十二年は東照宮二〇〇年忌の日光法会にあたり、日光祭礼に参向する御用通行者の休泊に備えて大沢町旅籠屋一同、他借その他の苦しい算段をして家屋の修復を終らせた矢先であった。大火の報せで大沢町の支配代官大貫次右衛門役所から山口与作が出張し現場の検分にあたった。四町野村でも支配代官羽倉外記役所から石黒永右衛門が火元の検使に出張し、現場の検分にあたった。このとき石黒永右衛門は火元に咎めもなく、現場の跡片付けを命じ臨時の小屋を建てることを火元に許した。この寛大な処置が大沢町に伝わると、災難に興奮している大沢町の人びとは一層動揺した。
類焼にあった木陣福井氏をはじめ大沢町役人は、ただちにこの処置の徹回を求めるため、四町野村名主伝次郎方に出むいた。大沢町役人の言い分は、火元一軒の焼失ならいざ知らず、大沢町を潰滅させる災難を与えた出火であり、現場はそのまま縄張りしてくわしく調査のうえ火元の処置をきめるべきである。しかるに焼跡を整理し火元になんのお咎めもないのは、大沢町類焼者に対し申訳がたたないということであった。この大沢町役人の掛合中、激昂した大沢町の住民五〇〇人ほどが、手に手に鎗・長脇差・鋤・鍬・熊手など、手あたり次第の得物を携えて四町野村名手方へ押寄せてきた。大沢町役人は必死にこれを食止めようとはかったが、大勢の人波に押されているうち、いきりたった人びとが名主方に乱入した。家の中は忽ち乱入した人びとによって乱暴狼籍にあい、戸・障子・建具は勿論、柱・天井にも刀〓をうけ、箪笥・長持・皿鉢・膳椀に至るまで微塵に打砕かれた。そのほか長持の中の金子四〇両が紛失し衣類三〇〇点が肥溜に投込まれたという。この騒ぎで四町野村の住民は身の危険を感じ、いずれも村外に脱出したので一時は村中無人の状態になったともいう。
四町野村の役人はこの無法の始末を羽倉外記役所に訴えでた。この訴書によると、打毀しの重立った者は、大沢町の茗荷屋政右衛門、米屋長兵衛、虎屋次兵衛、若松屋次郎右衛門、饅頭屋平右衛門、叶屋新兵衛、丹波屋由蔵、かど屋甚兵衛忰亀五郎、竹屋文五郎、桝屋彦兵衛、そば屋又兵衛、伊勢屋安五郎、島根元之丞、島根五郎吉、大黒屋嘉右衛門、小松屋百次郎・吉五郎、中宿の乙七、橘屋権右衛門、柏屋銀次郎、帳付政右衛門らであり、これら不法な者を取鎮めてほしいと願っている。
これに対し羽倉外記役所では、さきの検使役人石黒永右衛門を小山勇介に代え、大貫次右衛門手代山口与作を立会として再調査を実施した。この結果、火元へは改めて手鎖・村預けの処分が申渡された。また四町野村名主宅打毀しの一件は、大沢町から四町野村名主方へ打毀しの弁償金一〇〇両を支払うことで内済の処置がとられた。この打毀し一件は、きわめてはげしい騒擾事件であったが、このときの情状が認められ、一人の処罰者もでなかった珍しい例である。