消防と防火

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火災は江戸時代を通じ、ひんぱんに発生していたので、幕府ではしばしば火災防止の通達をだした。とくに宿場町の火災は交通業務が停滞する恐れがあったので、宿場宛の触書には、かならず火災防止の箇条を織りこんで注意を促していた。

 たとえば、享保八年(一七二三)十月に出された御触条目には、道中宿々には一町宛に自身番を置いて火消道具を備え、火の番の者をして常に町内を見廻らせる。宿役人もまた油断なくこれを見分し火の元の安全を確認することを通達している。また天保二年(一八三一)二月にだされた触書には、(1)天水桶・地水桶は組合内で申し合せ、時々見迴っては常に水を漲っておく。風の強いときは階子(はしご)を屋根に掛けておき、近くで火事がでたときは火の粉に気をつける。(2)簑・菰などすべて火が移りやすい品物は戸外に置かない。(3)物を煮炊きするときは、とくに藁の使用に気をつけ藁灰の始末をよくしておく。(4)炭火を持ち運ぶときは、幼い子供を使わない。など二一ヵ条に及ぶ懇切丁寧な火の用心の注意書をだしている。

天水桶(越ヶ谷久伊豆神社)

 越ヶ谷宿でも防火や消火に備え、はやくから各組毎に自身番が設けられ、纒・階子・龍吐水・鳶口・纒挑灯・鉄棒などの火消道具を常置していた。また町内の消防組織はつまびらかでないが、越ヶ谷町・大沢町とも各組毎に消防組が組織されていたようである。たとえば「大沢町古馬筥」によると、大沢町では上宿を〝かとり組〟、中宿を〝いろは組〟、下宿を〝みなと組〟と唱え、挑灯その他の火消道具にこの名称が記されていたという。纒の印は、上宿組は不明であるが、中宿組が〓印、下宿組には〓印がつけられ、一目で何処の組であるか見わけがつくようにされていた。これら消火組はひとたび火災が発生すると、ただちに駆付けて消火につとめたが、たとえ組違いの火災でも町単位に相互に出動して消火につとめる義務があったらしい。

龍吐水(千疋立沢家蔵)

 越ヶ谷本町内藤家「記録」によると、嘉永元年(一八四八)五月五日の夜、越ヶ谷新町釘屋清兵衛方の裏長屋から出火して一棟が焼失した。このとき消火にあたった越ヶ谷町消防組の中で、本町組の纒が現場に遅れてきたため、新町組ではこれを咎め、代官所に伺いをたてると本町組に通告している。このため新町組・本町組の間で争論となったが、仲介人が中に入って調停し、ようやく示談におさめたという例もある。