近世初期の文化

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徳川氏による国内統一後、諸国街道の整備が進められたため、主要幹道の宿駅地として江戸文化の影響はしだいに深まって行った。もっとも、村々には生活共同体としての伝統的生活文化が保持され、水田農業を主とした生産にかかわるもの、衣・食・住の日常生活に直結する文化、年中行事や寺社の祭り等にみられる芸能などがそのおもなものであったといえる。

 一方、越谷地域には朱印地六〇石を領した西方の大聖寺をはじめ、平方林西寺、越ヶ谷天嶽寺、大松清浄院等々庶民から崇敬を集めた寺社が数多くあり、学芸に秀(ひい)でた高僧も少くなかった。

 家康が天海・崇伝等の僧侶を重用し、以来文治主義を背景に林家の儒者が幕政に大きな力をなしたこととあいまって、江戸に近い越谷地域にも学問・文芸に秀(ひい)でた僧侶が輩出した。慶長十六年(一六一一)「和漢朗詠集註」を著した僧円清は四町野迎摂院の僧であったといわれ、また同時期の迎摂院第五世住職は、小池坊尊慶といい優れた学僧といわれる。

 また平方林西寺中興の高僧呑龍上人は増上寺の僧として、あるいは新田大光院の子育呑龍様として広く世に知られた高徳の僧である。時代は少し下るが天明七年(一七八七)に寂した大和国長谷寺の第二九世僧快運は大沢に生まれた人であり、文化九年(一八一二)に寂した智積院第二八世僧謙順は蒲生の名主中野家の出で、中野豊春その人であった。かれは宝暦元年(一七五一)、一二歳にして江戸の円福寺覚遠について世典を学んだことを契機に京都へ上った。栂尾の高山寺に寂するまでの七三年間に、「五宗録」、「真言録」、「略策海滴」、「大疏随類」等多くの著作を残している。

迎摂院過去帳