江戸の文人と越谷

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江戸時代も初期には、学問・文芸といえば僧侶・村役人等特定の家柄の者に限られたが、元禄期(一六八八~一七〇三)頃には街道も宿駅機能も整備され、河川交通も活発化するにつれて、商人層の中に経済的・社会的成長を背景とした学者・文人も現われ、庶民文化への足がかりがつくられた。

 越谷地域の学問・文芸の普及・大衆化に大きな役割を果したのは江戸の学者であり、文人であった。江戸文化の越谷地域への先駆は『奥の細道』で知られる元禄期の俳人松尾芭蕉(一六四四~九四)であろう。芭蕉の没後、蕉風復活の俳諧運動と共に越谷俳諧の基盤が作られ、越谷俳人の活動の中から越谷吾山が生まれた。

 江戸在住の学者で越谷の地に学問的啓蒙をなした学者としては、江戸諏訪町に学舎を開いていた異端の儒者亀田鵬斎、神道派国学を説えた伊吹舎平田篤胤があげられ、その影響は大きかった。

 とくに篤胤は越ヶ谷町山崎家・小泉家など私的生活を含めて越谷宿の商家と交流の深かったことが庶民層への学問普及に一層役立つこととなった。

 狩野派・淋派・文人派等広い層の江戸の画師が、元荒川をはじめ諸河川や風物を愛でて越谷地域に来遊していることから、その遺作や書簡が寺院、商家、村役人らの家に残されている。越谷に足跡を残した画人には谷文晃・酒井抱一・司馬江漢・鳥文斎栄之等がおり、大相模の大聖寺・その末寺青柳三覚院・見田方宇田家・瓦曾根中村家等にその証左を遺すところである。

 庶民画人としては文化年間から文政初期に越ヶ谷町の豪商として知られた塩屋(池田)吉兵衛の家に逗留して書画を描いた江戸の人、池田山鼎がいる。山鼎は実は塩屋吉兵衛の分家池田家の出身であり、宿内はもとより近隣の者にも屏風・襖・杉戸・袋棚・羽織の胴裏・和巾(ふくさ)の絵まで描き与えた。扇面画にいたっては日に幾百本となく描き与えたという。このことからもこの時期には絵画も広く庶民のものになって来たことを示している。

 また生花・茶道の伝授者に小泉栄作がいる。栄作は江戸本所石原の町役人で、隠居後は碪月庵一桂と号し、奥州や日光街道宿場の旧家に逗留して挿花・茶道を指導した。文政・天保年間越谷地域で栄作と特に親しい関係にあった家には瓦曾根村の中村家があり、その近隣の者にも生花・茶の湯の伝授を行い多くの子弟を養育した。

小泉栄作の碑

 こうした江戸の風潮は日光街道の宿場を中心として吸収され、享和年間には幸手宿に遠州流生花師匠の春暉庵一樹が現われその弟子に春々庵一無こと髪結永蔵がでて、花道が大衆化されたことを示している。

 小堀遠州を元祖とする遠州流が江戸の一般庶民にたしなまれるようになったのは明和頃といわれるので、越谷町民の生花・茶の湯の大衆化の時期は江戸市中と大差のないことが知られる。