村役人層の学問

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村役人層は大地主という背景から経済的にも恵まれた上に、村の支配者の立場から読み書きに接する機会が少くなかったから、村役人には優れた記録を残した者も多い。しかし享保年間(一七一六~三五)以降の経済的・社会的変動は農民支配層まで大きな影響を与え、従来の単なる教養としての読み書きから、生活を賭けた学問修得へと転化していった。こうした高度の欲求を満たすには江戸の学者を頼らざるを得なかったのは必然であった。

 ただ江戸へ出て学芸・武芸を修得するといっても、その目的とするものはそれぞれに差異があった。大別すると、江戸で修学の後、故郷に戻って村役人としての地位の確保やその指導に当るための者と、郷里での地位や家柄に見切りをつけ、学者として立身、仕官に望みを託する者とある。

 前者には、江戸両国薬研堀で学舎を開いていた萩原大麓に学び、帰郷後寺子屋を開いた西袋村の名主小沢平右衛門、蓮池の近くで学舎を持った渡辺蓮池堂文盟に学び帰郷の後、故郷苗塚村で一〇〇〇余名の子弟を養育したという小提作右衛門春盟、麹町二番町や清久村で神道無念流道場を開いた戸ヶ崎熊太郎のもとで修業し、帰郷の後故郷に道場を開いた東方村の名主中村万五郎等を挙げることができる。

 後者の例には恩間村の渡辺政之助と弸(みつる)の親子、方言学者の越谷吾山、事情は少し異るが江戸で生涯を終った出羽村の伊沢蘭軒の父信階こと井出門次郎等がいる。