宿場商人と国学

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越ヶ谷宿を中心としたこの地の水陸運輸の発達は、商業圏と流通量を拡大させた。これにともない商家の経営規模・運営資金は急速に大型化した。

 商人の経済的向上は必然的に社会的地位の向上となり、営業上・社交上から教養としての読・書・算(よみかきそろばん)はもとより、専門的な学問・文芸へと進展させていった。

 このような社会的変貌を反映して、林家の儒学―朱子学派―のみを正学であるとする独占的方針が幕府自身に濃厚であったにもかかわらず、儒学では陽明学派・古学派、さらに国学・蘭学・心学等々新しい学問体系がつぎつぎに誕生した。

 新学派の出現により、学者・門弟の出自が大きく変換した。林家の学問が幕府の御用学問として尊重されたのは、封建教学に最も好ましいからであった。したがって門弟となるには封建社会の支配層たる武士か特別上層の家柄の者に限られた。こうした御用学派に対抗した新学派・新学舎では、出自を問うことなく、職種、身分にかかわらず門人を受けいれた。新学派ではかつていやしい身分とされた商人が財力を認められて門弟として歓迎された。

 平田篤胤が神職者と共に豪農・豪商の門人獲得に精力を注ぎ、自らの著書出版に当って序文・跋文に名を載せて、財力門人の重用を図った一事を見ても、新興学派にとって商人門弟の占める役割がいかに大きかったかが知れる。

 心学の石田梅厳も町人子弟の養成に力を注ぎ、学問の目的を町人処世に置いた程であった。また新学派では門人資格に男女の差別をなくし、女子に門戸を開いたことも学問の庶民化を促進させる因となった。

 越谷宿の山崎長右衛門・小泉市右衛門・町山善兵衛が、同じ商売仲間である松戸の綿屋元吉の勧めで伊吹舎に入門したのも、平田の草莽(そうもう)門人拡張、江戸から地方への門人拡大の第一段階でのことであった。

 文化・文政期に、学問・文芸が商人とはいえ庶民層のものとなったことは、庶民子弟への手習風潮となり、寺子屋等での庶民教育の素地となり、江戸未期には宿内の商家の子弟は殆んど読書算を学ぶ程にまで普及するにいたった。