儒者小沢豊功と尚古堂

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小沢豊功は通称平右衛門と称し雅号を尚古堂と号した。

家康以来幕府の統治政策は武断主義よりむしろ文治主義におかれた。その政策参議には漢学・倭学者が重用された。初期には学僧が多かったが藤原惺窩等の学者が出るに及んで、朱子学派の儒学に傾倒していった。惺窩は招聘(へい)に応じなかったが、その弟子林羅山は幕府御用学者となり、以来林家の学問は正学とし、封建教学の主座を占めた。

 小沢豊功は、西袋村(現八潮市)で代々村役人を勤める小沢家の嫡子として天明六年(一七八六)に生まれた。幼少にして江戸へ修学に出、両国薬研堀に学舎を構える萩原大麓(一七五一頃~一八一一)に師事した。大麓は林派朱子学の正統を汲む儒者で厳格一徹の人として知られていた。

 豊功が大麓門下で何年、どの様な修学をしたか明らかでないが、大麓が上野国藤岡の田畑財産を弟に譲り、片山兼山に儒学を学んだ後、薬研堀に塾舎を開いたのは安永六年(一七七七)である。歿年が文化八年(一八一一)、六〇歳であることから、塾を営んだ年数はそれ程長いと思われない。平右衛門がその門人であったのは寛政末年から文化の初めであったろう。

 豊功は西袋村に帰郷し、尚古堂という塾を開いて近村の子弟教育に尽した。儒学正学の学者としての威厳は終生変らなかったという。かれが力を注いだのは律令式目で、その校正注釈に全力を傾けたという。

 その門には多くの子弟が学び、この地の庶民教育に多大の影響を与えた。その門下の一人に小提春盟(通称作右衛門、号は蓮泉堂)がいる。春盟は豊功の没した後、門人を代表して筆塚(ふでづか)の碑文を書いている。尚古堂で学んだ後江戸に出て、渡辺蓮池堂文盟に書・歌を学び、帰郷の後蓮泉堂なる寺子屋を開き、教育した子弟千有余人という。また蒲生村の中野弥三郎、上間久里村の上原治郎衛門も尚古堂の門人である。このうち中野弥三郎は、蒲生村の名主であり、通称の弥三郎は中野家当主の襲名である。天保二年(一八三一)生まれ、明治五年(一八七二)に四二歳で没した。父弥三郎は本因坊囲碁初段を許された程で生活は恵まれていた。中野弥三郎が尚古堂に学んだのは二〇歳前であったろう。そして安政二年(一八五五)豊功が七〇歳で没したときは、弥三郎は二三~四歳であったとみられ寺子屋の開業もこの頃と思われる。その閉塾は明治の小学校の誕生によるものであった。