中村義章(字は子厚、号は培根)は、越谷での教育史上忘れ得ない人物である。
義章は西袋村の小沢家に文政元年(一八一八)十月二十一日に生まれ千之助と名付けられた。母は見田方村名主宇田家の女、千之助は幼少から家塾で門弟と共に豊功から和漢の学問を修学したものであろう。
天保二年(一八三一)二三歳の折、親戚の東方村名主中村家から請われて養子となった。天保五年に名主役につき、孫左衛門を襲名した。家業としての名主の職に精進するかたわら、村民の養育、自学の研修に励んだ。また菊地太郎に漢学を学び、学友には儒者として高名であると共に西洋砲術家、開港論者で知られる大槻盤渓がおり、また頼山陽にも接する等のことから漢詩もたしなんだ。
培根の学舎に学ぶ者三百余人と称されたが、明治五年の学制により私塾が廃されるに及んで、東方・見田方・南百の三村組合校を東方観音寺を仮校舎として開設し、培根学校と称する公立学校が誕生した。村びとからは培根翁と慕われたが、明治八年十二月五八歳で生涯を終えた。