伊沢信階

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伊沢信階(のぶしな)は寛保三年(一七四三)埼玉郡七左衛門村下組の井出家四代門平(号は四時軒)の次男に生れ門次郎と称した。成長後、京都の儒者武梅龍こと篠田維嶽について学んだが、武梅龍の実直なる風格に大きく感化されたという。武梅龍の門人には、豊後国岡の城主中川修理大夫の侍医飯田久庵信方などがいたが、信方はのちに信階の姉、つまり井出門平の長女を嫁にしている。

 信階は明和四年(一七六七)、二四歳のとき、望まれて江戸麻布鳥居坂の医師伊沢信栄の聟養子になり玄安と称した。のち安永五年(一七七六)信階三三歳のとき、宗家伊沢家を信栄の実子に譲り、自らは本郷真砂町に移って分家を創設した。信階は寛政六年(一七九四)十月、年五一歳のとき備後国福山藩主阿部伊勢守正倫の侍医に抱えられたが、以来代々阿部家に仕えて信任が厚かった。

 ことに信階の子蘭軒は漢詩にもすぐれ、頼山陽をはじめ狩谷掖斎・菅茶山らとの交遊も深く、当時の文化人の一人に数えられている。文化四年(一八〇七)五月、蘭軒が長崎奉行に任ぜられた曲淵和泉守景路に随行して長崎に旅行の留守中、信階は年六四歳で病没した。法号を隆升軒興安信階居士という。

 また蘭軒の子柏軒は父の跡をつぎ、阿部伊勢守正弘の侍医を勤めたが、正弘が幕府老中になるに及び、江戸城の奥医師を兼任した。正弘が病でたおれたときは、正弘の願望で終始単独でその治療にあたった医師である。

 老中阿部正弘は開国に加担し、進歩的な政治家であったが、その病いを西洋医に任せようとはしなかった。それは漢法医術は古来からの日本医法であり、かりに西洋医法をかりて病を治したとあっては、幕府老中の座にある者として、日本医法をはずかしめたことになり、国威にかかわるとの信念によるものであった。安政四年(一八五七)六月、正弘は福井藩主松平春嶽など諸侯から差向けられた西洋医の来診を拒否してこれを玄関にも入れず、伊沢柏軒一人にみとられて没した。ときに年三九歳である。柏軒は正弘の死によって幕府から咎めをうけなかったものの、江戸城奥医師から江戸城表医師に転ぜられた。阿部正弘は漢方医柏軒を信じ、西洋医学の軍門に降らなかった最後の政治家であったといえよう。

 なお七左衛門村井出家では、信階を伊沢家へ養子にだしたのち、麻布鳥居坂の伊沢家宗家へ娘を嫁にだしたり男子を養子にだしたりして縁戚を深めている。このほか江戸南八丁堀はりまや太兵衛や、江戸新宿町酒屋八右衛門、あるいは千住小塚原松屋繁次郎などへ娘を嫁にだしている。こうした縁戚関係は、井出家に限らず、案外江戸との交流は当時でも頻繁であったようである。

 因みに伊沢家の事歴に関しては、森鴎外の「伊沢蘭軒」に詳細に述べられている。