越ヶ谷町医師岩松元旦

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文政八年(一八二五)十月、越ヶ谷本町三鷹屋嘉兵衛は、その親勘兵衛が下総結城町の商用先で急病でたおれたとの報せをうけたとき、医師岩松元旦と石川安悦、そのほか親戚の者をともなって勘兵衛を迎えに駈けつけている。岩松元旦は越ヶ谷本町の医師であるが、石川安悦は新方領大吉村の医師であった。また「越ヶ谷瓜の蔓」の家並図のなかに、医師竜玄屋敷が記されているので、竜玄という医師がいたことが知れる。このほか正徳四年(一七一四)当時、別府村に浅井宗玄、宝暦から明和年間越ヶ谷町に木原雲的、安政六年(一八五九)当時七左衛門村に正庵という医師がいたことが確認されるが、これら医師の履歴やその事歴は、史料的にいずれも不明である。わずかに越ヶ谷町医師岩松元旦の一端の事歴が一通の文書(慶大蔵四町野会田家文書)から知れるのみである。

 すなわち元旦は安政三年七月、関東取締出役によって逮捕され、奉行所の取調べをうけている。罪状はつまびらかでないが、四町野村はじめ近隣三〇ヵ村による元旦の釈放嘆願書によると、「元旦は医業のかたわら人びとに読かきの指南を授けていたので師弟の間柄にある者が多い。ことに若輩の者や不身持放蕩の者がいると、進んでこれを自宅に引取り、意見を加えて親切に教諭をほどこしていたので今般の次第に至った」とある。したがってこうした元旦の門弟のなかから罪人がでたとみられ、おそらくこれに連座したのであろう。

 さらに嘆願書では「元旦は日ごろ病人に対しては、その家の遠近や昼夜の差別、さらには貧富のわけへだてなく、風雨をいとわず親身になって病人を診てまわった。しかも困窮者からは金銭も受取らずに医薬をほどこしたので、元旦に助けられた者は数えきれない。ことに当年の夏は暑さが厳しく、村びとのなかで熱病にかかる者が多かったが、元旦の手当をうけていずれも快方に向っていた。こうしたとき突然元旦が逮捕されたので、病人の医薬が行届かず、なかには病死する者や病状の悪化する者が続出し、一同当惑している。どうか格別の御慈悲で御憐愍の御沙汰を願いたい」と愁訴している。

 この奉行所へ出された釈放嘆願書は、四町野村名主角太郎、神明下村名主保太郎が世話人になり、廻状をもって近隣村々名主の協力を願ったものである。この廻状では、「越ヶ谷町医師元旦が、この度関東取締出役によって召捕えられ、只今吟味中であるが、老年の身であるので、万一入牢となれば一命にかかわる。どうか元旦の釈放のため近村のよしみをもって御加勢を願いたい」とある。これに対し村々はいずれもこれに同調して嘆願書に署名している。その後、奉行所での元旦の取扱いは不明であるが、元旦は翌安政四年三月、年六三歳で没している。巷説によると嘆願書の効なく牢死したとも伝えられている。いずれにせよ義侠心に富んだ当時の医師の一端がうかがえられよう。

 なお医師岩松家の一族には、文政五年(一八二二)に年六七歳で没した岩松良廸、明和六年(一七六九)に没した木原雲的、文化四年(一八〇七)に没している木原一学、明治十九年に年七八歳で没している木原道悦などがいるが、いずれも越ヶ谷町の医師であったという。写真は野田市木原栄次郎氏提供による岩松良廸の肖像画であり、越ヶ谷町医師の当時の風俗を示しているものとして貴重なものである。

岩松良迪肖像画(野田市木原栄次郎氏提供)