神道無念流中村有道軒

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中村有道軒(諱は正敏、通称は七郎右衛門のち万五郎)は桓武平氏高望王の末裔といわれ、東方村開発以来の土豪中村家に天明四年(一七八四)十一月二十六日に生まれた。幼年より剣術を好み、戸ヶ崎熊太郎知道軒暉芳とその二代目有道軒胤芳とに学んだ。暉芳の流派は、福井兵右衛門(一七四四~一八〇九)の開祖になる神道無念流である。

 暉芳は清久村(現久喜市)に生まれ、一六歳にして出府し福井の道場に入門しその後継者となった。二一歳(明和二年)神道無念流の免許皆伝を得、諸国修業の後、清久村と江戸麹町二番町とに道場を開設した。麹町道場開設は安永六年(一七七七)、暉芳三五歳の折という。

 万五郎の生まれた天明四年には暉芳四二歳ということになる。したがって万五郎は五〇歳を過ぎた暉芳の弟子になったことになる。初伝を許された享和元年(一八〇一)には万五郎一八歳、暉芳五九歳、胤芳二九歳であった。

 初伝を許された万五郎は技倆の研鑚のためと当時の慣習から諸国遍歴の旅に出、著名剣士と交遊の後、故郷東方村に戻り道場を開設した。その門弟は一〇〇〇余人、その奥伝を与えられた者は数十人といわれる。

 おも立った門弟には田代安兵衛義武・関根伊十郎重安・神田又蔵功忠・神田要蔵邦貞・津田政治郎功幸・逸見熊治郎福演・会田市太郎孝徳・千代田兼松武輝・関根与茂右衛門照親・高島五兵衛邦泰・蓮見岩松義正等がいる。

 万五郎三五歳の文化十五年二月、胤芳は死に臨んで、子芳栄はまだ十二歳の幼年で神道無念流の奥義を伝えるには技倆・年令ともに不足のため、万五郎に有道軒の号を継ぐことを遺言して、四五歳の生涯を閉じたという。以来有道軒の号は、中村万五郎の道場が襲名することとなり、戸ヶ崎三代熊太郎芳栄は喜道軒、四代熊太郎芳武は尚道軒と号した。

 有道軒万五郎が万延元年(一八六〇)一月、七七歳の生涯を終るや、門弟一同はその夏大聖寺境内に石碑を建ててその遺徳を伝えたが、その碑文と詩は儒学と漢詩をもって当代に知られた大槻盤渓が記している。

 誰謂劔一人敵 兵法源実在茲 一人学至千人 三軍可以駆馳

 而況神道無念 神之変可度思 於戯乎有道軒 剣術宗兵法師

中村有道軒之碑

万五郎の死後はその子息正迪が道場を受継いで有道軒を号した。つまり万五郎の師匠戸ヶ崎熊太郎の号した有道軒は中村万五郎が襲い、その跡は万五郎の子中村正廸がこれを継いだのである。なお万五郎の弟子のなかからは逸見思道軒福演などのすぐれた剣術家が出ている。

神道無念流系統