鎗術指南渡辺弸

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村役人層の子弟とはいえ、封建教学の武芸を修得することは容易ではなかったが、江戸も後期に近づくにつれ封建支配体制もゆるみ、学問と同様武術を学ぶ者も多くなった。とはいえ、武芸をもって生計を立て、仕官することは農民出身では不可能に近かった。こうした社会にあって、私塾の武道場を開き、榊原家に仕官した武術者に恩間村名主渡辺荒陽の次男弸(みつる)がいる。

 渡辺弸は天明二年(一七八二)四月の生まれで、字を長鳴、号を青海、通称を源九郎・源太左衛門・駒之助と称した。八歳にして母(粕壁宿関根福宜の女)を失い、九歳(寛政二年)にして父に連れられ江戸へ出た。出府当時は剣より学問・書道に励み、谷熊山等に学んだという。

 一六歳頃、上岡流上足の一人といわれる、岩槻侯家臣の松田藤左衛門秀晴について鎗術を修学し、二〇歳の折、真野流の甲胄製作用法を細井某に学び、武芸者としての修養を積んだ。文化五年(一八〇八)、弸二七歳、江戸八丁堀亀島町に鎗術・甲胄の指南道場を開設した。私塾でしかも浪人者の鎗術稽古所は江戸市中でただ一つといわれた。渡辺荒陽の著『馬耳風譚』によればその門人には、幕臣久代与左衛門の世嗣弥五郎や、同じく幕臣の菱田判兵衛・江坂弥六郎・三村市蔵等も集まったという。

 文政四年(一八二一)、父荒陽が出入りを許されていた越後高田侯榊原家に招かれて五人扶持をもって仕官した。父子二代の宿願が達せられたのである。翌五年十人扶持に昇給し、以来安政六年(一八五九)四月没するまで、榊原家家臣として生涯を終えた。