江戸末期、庶民の剣術普及は当然刀剣の需要増大とともに、名刀の要求となった。諸国の名刀を求めることの急務であると同時に、新刀を刀鍛冶に造らせることも盛んになった。一貫斎義弘もこうした社会を反映した越ヶ谷刀匠の一人であった。一貫斎義弘の作になる刀剣は現存しているが、その出自や鍛冶場については明確にされていない。
『古今鍛冶銘早見出』に文政年間中山蔵人と称する武蔵の刀匠があったとある。この中山蔵人が、柳剛流の剣士で知られる吉蔵新田(現川口市)の中山家と関係があるかは不詳だが、中山家の剣士の一人に柳江斎中山名誉之輔国輝なる者がいる。国輝は佩刀のため、越ヶ谷宿荒川べりに鍛冶場をもつ越ヶ谷袋町刀匠一貫斎義弘に、三尺五寸の刀「飛龍丸」を依頼し、天保十三年(一八四二)仲秋に完成したという。銘にもあるとおり試切りでのその切味と、荒川の澪水による精錬のよさは貴重刀剣として認定されている。