大島蓼太と袋山俳句連

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俳諧の起りは室町期といわれるが、文学としての地位を確立し、大衆のものとなったのは江戸時代で、松永貞徳・西山宗因・松尾芭蕉等の輩出以降といえよう。

 越谷地域での俳諧の庶民化は松尾芭蕉の没後、蕉風復活の機運を示す五色墨の「芭蕉に帰れ」運動、また続五色墨の運動によって広く普及されていった。したがって、その先陣に立った大島蓼太・加舎(かや)白雄の影響によったものや、もう一派葛飾蕉門と呼ばれる山口素堂・溝口素丸とその門人による普及活動に負うところが極めて大きかった。

 大島蓼太(一七〇七~八七)の姓は吉川、信州伊那(木曾ともいわれる)に生れ、幼少江戸へ出、藤屋平助と称し御用縫物師も勤めたという。嵐雪に師事し、続五色墨運動の中心者として活躍、雪中庵・陽喬などと号した。

 蓼太とその門人が越谷近辺を訪れたのは明和年間(一七六四~七一)頃と思われる。恩間村の渡辺荒陽の自伝『馬耳風譚』によれば「おのれ初冠の頃、俳諧てふ戯れごとを弄びし事しばしありて、其頃たび/\おのれが方へも来り、発句の善悪をもあげつらひ誘ひくれたる雷堂といひしものあり」と蓼太門人の判者である雷堂に俳者になることを勧められたとあり、また同人の『鬢鏡』なる俳歴書には

  予は生れつきなみをはずれたる不才器様なりし故に、此こと(俳諧)大に骨折りたり。十五六歳の頃より初め、はたちの頃まで昼夜此ことのみかかり、蓼太をはじめ彼が門下の判者なる、周竹・万古・雷堂・漁文・連文・梅郎・文来など、一年には両三度づつ在所へ来り、十日、廿日程づつ滞留いたし、その間友だち集り、点取はいかいとなし、又年に両三度づつは江戸へ来り、所々の会席へもつらなりたり。されは〓歩(きほ)不休跛鼈(はべつ)千里とかいひし如く、われならなくに奈良茶も喰つぶし、二十歳頃に至らむとせしに彼の文人きたり、諸侯方其外の句をあつめべきまま、判者弘めせられよと連(しき)りに勧めけり。蓋(けだし)、蓼太が意を受けて来りいひしなり。然れ共誹諧師たらむこと心にあらざれば、固辞してなさず。

とあり、江戸から蓼太やその門人が年に両三度、十日から廿日滞留して、恩間や袋山の人々に俳句を指導していたことがうかがえる。また越谷からも江戸へ年に両三度は出府し、句会へ出席する機会もあったことを記している。

 袋山村の久伊豆神社の境内に、天保十二年建立になる袋山俳句連の句碑がある。

  堤草の ゆるぎもやらず 雲の峯   螢河

  ゆふ風の 戦(そよ)ぎ見たるや 合歓花(ねむのはな)   宗銘

  さら/\と 雨も降し  若葉山   遊雪

  峯いくつ 越てのぼるや 冨士の峯  脩栄老人

       願主 細沼廉陰

宗銘・脩栄いずれも袋山村の人であるが、葛飾蕉門の錦江(九世其日庵)に学び判者の域にまで達した人である。「葛飾分脈系図」(嘉永年中)に、

  宗銘 春鳥舎。弘化四年丁末ノ春老俳。武州袋山村。

  脩栄 六世両儀庵、始岱山軒。武州新方領袋山村に住す。素泉弟也。泰賀死するの後、嗣号して白扇、玄竜と同じく判者にすすむ。某年死す。

  素泉 二世荷葉斎 后小崎庵 真間田安五郎 武州綾瀬尾ヶ崎新田に住す。文政九年戍三月四日判者にすすむ。

とある。文中白扇とは別号を宝机庵、始青蓮堂、斎藤徳三郎といい、新方領西新井村の名主である。文政五年正月に列山の門に入り、天保九年九月九日判者にすすんだ人である。