葛飾蕉門と越谷

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葛飾蕉門の始祖は、蓮池翁山口素堂信章(寛永十九年五月五日生、享保元年八月十五日歿)によって開門された。素堂は儒者であるが芭蕉とも懇意で、辞世句には

  我をつれて 我かげ帰る 月見かな

を残している。号は蓮池翁・素仙堂・今日庵(俳号)来雪という。

 葛飾蕉門は三世素丸の折に蓼太と提携したことによって、蕉風復活の一大勢力をなすに至った。七左衛門村の句連碑が観照院境内にあり、

  行先の こゝろ強さよ 時雨笠

  くるゝなら 門にて居べき 遠雷の道   過外庵貫月

  寒菊や 日延巡り来て 香の深き     野口裡宜甫

  埋火や 消ても残る 炭の嗅き      真秋庵露月

と、名主野口氏を中心とした句連が知られるが、これより先、七左衛門村には葛門の蓁々の門人であった泰賀がいる。泰賀は世五両儀庵・釈勇日と号し、越ヶ谷領七左衛門新田の正福院の住職で文政十一年五月十五日に判者になった。

 越谷近隣で葛門活動の中心であったのは大川戸葛門であろう。大川戸葛門の創立者といわれる法雨(文化八年没)は、老茄園と号した山崎与惣兵衛詮明のことで、宝暦年間(一七五一~六四)にすでに活躍している。この人のほか大川戸には、序跋・藍水・鼠夕ら優れた俳人がいた。

  序跋 宇呂庵こと小林茂吉。寛政四年判者となる。三祖素丸門人

  藍水 二世老茄園、近月庵こと川辺(島)藤助。紺屋業。文化元年判者に列す。文政十二年没す。

  鼠夕 老茄園。増田与兵衛。天保十年三月四日判者となる。

 また大道村にも、呑酔・白枝・文瓊などの知られた俳諧者がいた。

  呑酔 養元庵、鈴木綱右衛門。文化十二年三月錦江門に入る。弘化四年判者。

  白枝 弄花園

  文瓊 大道舎、名主元兵衛。弘化四年三月廿日老俳。

 越巻中新田の薬師堂には嘉永六年の「ものはづけ奉納額」があり、その境内には句碑がある。句を載せているのはいずれも近隣の村人で、その世話役には越巻村佐藤の名倉忠兵衛(号は孝保)がなっている。忠兵衛の句は

  誰か道を つけるともなし 花野原

とあり、越巻中新田、高橋治郎右衛門(号は亀甲)は、

  草むらや 竹の中から さく菖蒲

の句を寄せ、また同所の嶋村定蔵(号は魚定)は、

  菜の花や 野守の恵の 夕日和

との句を載せている。

 このほか綾瀬川の川沿地における葛門人として次の諸氏が挙げられ、これらの地域からも優れた俳人が、数多く輩出していることが知られる。

  柳寿 三世素信斎、后綾辺居、庄兵衛。武州戸塚村に住す。文政九年三月判者。

  一力 大塚亀蔵。同鈎上。執筆となる。

  木淵 不極庵、会田孫蔵。鈎上新田。天保九年九月判者となる。

  秋里 醸亭 素信斎、中山利右衛門。弥兵衛新田。文政八年入門。執筆から、弘化四年判者となる。

  素中 中山吉次郎。藤八新田。弘化四年老俳。

  榎松 畔路園 原田新八郎。長嶋村。文化九年正月入門。天保九年執筆、弘化四年老俳となる。

 このほか蒲生句連の俳人に加茂国村がいる。国村は蕉門の中川乙由の派に属し、寛政十二年(一八〇〇)俳書『萩のあそび』を著わしている。しかし国村については、蒲生の人であることのほか、くわしいことは不明である。

越巻薬師堂の句碑