越谷吾山

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越谷吾山秀真(一七一七~八七)、号は古馗庵、師竹庵ともいう。

吾山は、蕉風復活運動の第一人者と称される大島蓼太・加舎白雄と比肩される俳人であるが、季語・助詞・語意の研究家として、言語学者として高い評価を受けている。とくに『物類称呼』なる著書により、言語学の先駆としての地位を不動としている。

 吾山の出自については、「越谷吾山」又は「越ヶ谷吾山」と著書の序文や発句の肩書に記されていても、越谷のどこの人かについては明らかにされていなかった。しかし関係者の努力により法久院(廃寺となり天嶽寺に合併)霊名薄・会田家位牌等により、越谷宿開発名主会田家一統の出自であり、享保二年(一七一七)ごろ越ヶ谷宿に誕生したものと推測された。

 吾山の俳諧入門は幼年の頃と思われ、白井鳥酔の撰になる元文五年(一七四〇)の『冬野あそび』のなかに吾山二四歳頃の作品として、

  卯の華に わたして散や 白つゝじ

の句が載せられている。また、同年鴻巣の人春漸亭梅富の撰になる『稲筏』に

  壱分は 光り足らぬ 小遣ひ

  隠居とは 藪を一重の 月と闇

等あることから、これ以前に俳諧の道に親しんだことは明らかである。

 かれの俳諧の師は佐久間柳居であった。柳居は守墨庵・二斛庵とも号し、貴志沾州の門人で日本橋浮世小路に住し、多くの俳句門弟を指導した。俳諧は通俗に迎合することでなく、芭蕉の求めた世界にこそ芸域があると主張し、蕉門への復帰を唱えた五色墨の一人に数えられている。

 吾山の佐久間柳居への入門期は明らかになし得ないが、「芭蕉に帰れ」の運動の一環で行なわれた芭蕉五十回忌事業、寛保三年(一七四三)の深川長慶寺の発句塚再興、同年の鎌倉光明寺の十夜詣に吾山も参加しており、この期にはすでに柳居門人であったことは明らかで吾山二七歳の頃である。このうち鎌倉光明寺の十夜詣に詠んだ句はつぎのごとくである。

  音楽に ちるや十夜の 霜の花   越ヶ谷吾山

 この当時、芭蕉復活の俳諧者拡大運動はめざましく、特に芭蕉の跡を探る気風から、奥州道筋での後継者の活動には見るべきものがある。葛飾派と称する俳門の一人溝口素丸勝昌、大島陽喬蓼太とその門弟の俳人活動が、吾山を俳諧へ進ませた一因であったろう。

 吾山の句が柳居に撰され『甲子歳旦』(寛保四年)・『乙丑歳旦』(延享二年)・翠紅撰『俳諧継琵琶』(延享四年)に掲載され、若年ながら吾山は俳人としての位置を確保していた。寛延元年五月三十日佐久間柳居は五十四歳にして没したが、吾山は、その後も柳居門弟と行動を共にしながらも、水間沾徳(せんとく)にも師事したと思われる。

そして吾山はさらに俳諧の道に精進し、その句は麦斗庵卜史撰『はつ便』(寛延二年)・古川秋瓜撰『歳旦帖』(寛延四年)・『影をちこち』(宝暦元年)・小宮山門瑟撰『乙亥歳旦・丙子歳旦』(宝暦五・六年)にも撰され掲載されている。

 吾山がいつ頃から総宗匠・判者(採点者)の地位を得たかは明らかには出来ないが、吾山が撰者となった歳旦帖は、『甲子春帖』の安永三年(一七七四)を初見とするが、これには

  煤掃や洗ひ顔なる くれの月   師竹庵吾山

という句を載せている。

 しかし吾山の判者期はこれ以前、滝沢馬琴の『吾仏の記』に吾山は「沾山に従ふて判者になり」とあり、さらに明和七年の江戸判者の総覧書『俳諧〓』に吾山の名が載っているので、おそらくこの頃であろうと考えられる。

 また芸道の最高位「法橋」に推挙された時期はつまびらかでないが、安永六年(一七七七)の吾山の歳旦帳(「東海藻」)までは、法橋とは記されていない。しかし同八年の『翌檜』の序には、

  稚言俗語翌檜巻本 武江法橋吾山越谷秀真著、不二享井来・春雷堂建朱映校定 東原子田末央刪補

と、法橋吾山とあるので、すくなくとも安永六年から同八年の間に法橋に推挙されているのは確かである。

 また『南総里見八犬伝』の著者で知られる滝沢馬琴が、いつ頃、どの様な経緯によって、吾山門に入ったかは確証がないが、元文五年頃の入門と推定されている。馬琴の著『耽奇漫録』(天保三年刊)には吾山が賛をし、同じ柳居の門人である牧冬映桂窓が絵を描いた、天明三年卯元旦の「打出す 玉かこがねか 初日影」が掲載されている。

吾山の画賛

 吾山は、俳詣者としての創作的芸術家というより、文献学的・言語学的研究者としての姿勢を保ち続けた。したがって吾山も馬琴等と同様文献学的国学者の中に入れられるべき学者でもある。

 吾山が本格的に著述をしたのは江戸に常住するようになった明和七年頃からで、代表的作品には安永四年刊行の『物類称呼』、同八年の『翌檜(あすなろう)』がある。

 『物類称呼』は、当時この種の著書のなかったことから、出版と同時に江戸学者の間に注目された。その一例として、平田篤胤が伴信友に宛てた文化十二年三月十四日の書簡に、「諸国方言物類称呼などといふもの御覧被成候か、随分取べき事もあり、薄き五冊也」と記され、当時から〝取べき〟著書と評価され、言語学の先駆的研究書の地位をなしている。

 内容構成は全五巻よりなり、

 巻一 天地(天体・地質・四季) 人倫(父母兄弟・家庭・人体)

 巻二 動物(動物・魚貝類・爬虫類)

 巻三 生殖(五穀・野菜・草木)

 巻四 器用(家具・器具・道具・生活用品)

 巻五 言語(言語・語義・文法)

となっている。各部門・項目とも全国各地にわたって取材されており、文献も古今にわたりよく渉猟されている。

 『翌檜』は「あすなろう」「明日檜」とも「俳諧道志るべ」ともいい、弟子の吾中が序文で言っているように、門人が発句の辞典とすべく懇望しての著述で、吾山も、俳諧の道しるべで、「あすなろう」は芭蕉の句の中より借用したものであるといっている。

 内容構成は「諸国略地名」なる地誌、「東海道名物」「諸国温泉之地」に始まり、人名・調度・器機に至る百科辞典で、文字どおりの便利帳となっている。この著書は、巻末の出版予定に後編も出版される運びになっているとあることから、続編もあったものと思われる。出版は江戸室町の申椒堂須原屋市兵衛のが初版である。

 吾山のこの他の著書には『俳諧月と汐』『朱紫』(あけむらさき)『俳諧本草』『俳諧八集問答』等が知られている。