越谷地域の旧家に所蔵されている掛軸や画賛のなかに、越谷山人と署名のあるものが数多くみられる。もと越ヶ谷本町に居住していた池田政和氏によると、越ヶ谷中町鈴木源兵衛氏所蔵の画賛が二点、池田氏所蔵の掛軸が一点、同じく越ヶ谷新町浜野宗一氏所蔵の画賛が二点、春日部市武里の町田信三氏所蔵の掛軸が一点、このほか鈴木氏所蔵のもので、その奥書に「天保四癸已孟春改刻、保永堂述者越谷山人、画工眉山竹孫、江戸地本屋竹内孫八板」とある「戲戯劇(おどけ)百人一首闇夜礫」と題した木版刷による刊本があるという。
このうち鈴木氏所蔵の画賛の一つは、「とほ乗の馬のしち泡ふきちるは、梢にしらぬはなあらしかも」との狂歌をしたため騎馬の絵が画かれた画賛である。これには「丁亥春越谷山人時七十有二」とあり鱗斎という落款がある。また一つは「さくら植て、なお賑しきよし原は、花の物いふさとにぞありける」の狂歌と桜花が画かれている。これには「越谷山人時年七十有一 酩酊画賛」とあり、同じく鱗斎らしき落款そのほか角の朱印が捺されている。
また池田氏所蔵の掛軸は、越ヶ谷宿の孝子文太郎についての賛文が書かれており、これには「文政十丁亥文月、越谷山人南柯堂鱗斎時七十有二」とある。なおこれと同じ孝子文太郎の賛が書かれている掛軸が、春日部市武里の町田信三氏も所蔵しているという。
さらに越ヶ谷新町浜野宗一氏所蔵の画賛は、登戸村の名主関根氏の母堂に関する賛であり、これには、「武蔵国登戸の里正関根氏は、予の若き頃からの友である。この母堂は文政九年現在一〇〇歳の長寿であるがなお健在であり、喜びにたえない。このたびこの母堂の長寿が幕府の知るところとなり、もったいなくも将軍の命により、寿という文字が記されたおぼんが下賜された。これは世にもまれな光栄である。このほかいろいろの下賜品が下付され人びとの眼を驚かせた。ああ、其身の幸や家の面目は、何事もこれに及ぶことではない。家が富み、親族の者も多いので、まわりの人びとが集まって賀祝のにぎわいは一通りではない。いずれの人どうしてもこれを羨まないわけはない。予も古くからの知友なので、つたない筆をとる。七十一翁越谷山人」という要旨の文を記し、そのかたわらに「西王母が もゝとせの花咲そめて 其名もとしも雲に登戸」という狂歌がしたためられている。
また同じ浜野氏所蔵の今一つの画賛には、「天は円にして地は方なり、東西南北是を四隅と云、天地の間に人生きて、耘耕穀実法る」云云の教訓が記され、「三ツあしの如くに似たる天地人 かくの如くに足る事を知れ」との狂歌が付されている。これには「文政己丑秋越谷山人年七十有四謹画」とあってこれにも鱗斎らしき字の落款があるという。
このほか市史編さん室で新たに発見したものに、長島の内山金次氏所蔵の掛軸一幅と、見田方の宇田美知氏所蔵の画賛一輻がある。内山氏所蔵の掛軸は、芭蕉の肖像を画いたものであり「蓬来にきゝはや 伊勢のはつ便り」の芭蕉の句が書かれている。この掛軸には、「越谷山人時年七十有六謹画」とあるので、越谷山人天保二年(一八三一)の作品である。
また宇田氏所蔵の画賛には花草が画かれ、そのかたわらに、すでに宇田家の故人であるとみられる貞歌尼という人の現存していた時は、「つねに物読み和歌を詠じ給ひけるも、星移り霜替りてけふゆく慈明の忌になりき、あるとき庭前の草花を見て一首[ ](破れ判読不明)予に見せ給ひけるも、十なゝとせの昔今見る如くなるにつけ、愚老が耳の底に残りけるを語りけれは、追福の手向にもなるへけれは、尼公にかわりて書てよと孝子のもとめに応じて、「おのが身の 老ゆく事もおもほえす 待くらしつゝ薗の草花」と記されている。これには「文政庚寅夏六月五日 越谷山人時年七十有五謹書」とあるので、天保元年のものである。
このように多くの掛軸や画賛を越谷地域の旧家に残した越谷山人とは、いかなる人であろうか。掛軸や画賛に署名されいる年令から推すと、山人は宝暦五年(一七五五)の生れである。たしかなことは今のところ不明であるが、池田氏によると、越ヶ谷新町松本宗平氏の祖父庄次郎氏の話では、山人は越ヶ谷宿の生れでしばしば江戸に往復し、狂歌や俳画に秀(ひい)でた人であったという。事実、文政十年六月幕府から褒賞された越ヶ谷町の孝子文太郎や、同じくその長寿を褒賞された登戸村名主関根氏の母堂を知っており、さらに見田方村割役名主の宇田家などに出入していたのをみると、越ヶ谷宿に関係の深い人に違いない。
また大沢町の名主江沢氏が天保年間に記述した「大沢町古馬筥」のなかに、江沢一楽は越谷山人なりとの朱書が付されてあるので、あるいは越谷山人とは一楽翁こと江沢昭鳳であったかも知れない。いずれにせよ山人は越ヶ谷に縁のある当代のすぐれた文化人であったことに違いない。