大聖寺と画人

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谷文晁(一七六三~一八四〇)は、田安家の家臣であり詩人であった麓谷を父としている。絵画の師は狩野派加藤文麗に、南画を張秋谷に学び、水墨山水を得意とした。

 文晁が見田方の宇田長左衛門に宛てた書簡に「其後は良久御疎濶相過候」とあり、文晁とその門弟の越谷来遊の機会のあったことがうかがえる。門弟には、渡辺崋山・高久靄崖・春木南湖・渡辺玄対等名ある画人が多数いる。

 三野宮の路傍に文政八酉年二月吉日の建立になる稲荷石祠があり、この石祠には

  「幾歳や 五穀の種子を 稲り川   紫山」

と刻されている。

 紫山とは、あるいは宋紫山のことであろうか。紫山と三野宮との関係は明確にはなし得ないが句連との関係と考えられる。紫山の父は宋(旧姓楠)紫石で、絵を熊斐に学んだ後、紫岩に学び一家を成した人で、紫山は父の歿後宋門を継ぎ、俳諧と絵画で世に称誉された。

 越ヶ谷宿の出身で、俳人で画人でもあった者には、本町の塩屋(池田)吉兵衛の分家に生まれた池田山鼎がいる。文化年間故郷の実家吉兵衛の家にあって、近隣の者に絵を描き与えていることは釈敬順の「十方庵遊歴雑記」の記すところである。

 先に宇田長左衛門に宛た文晁の書簡があることを述べたが、その文中に「然ば此度大相模大聖寺へ門生田辺文窓と申もの認ものにさし遣申候」とある。越谷市域では由緒のある大相模大聖寺には文晁に限らず諸国の文人の来訪が少くなかったようである。

谷文晁の書簡(見田方宇田家蔵)

 大聖寺の境内には「良弁塚」がある。その碑銘の末尾に「天保八季丁酉菊月 沙門寿山謹識」とあるが、寿山とは大聖寺の当時の住職である。この寿山和尚と、江戸の科学者であり洋画家、さらに日本初の銅板画家として知られる司馬江漢(一七四七~一八一八)との関係は「文化八年四月十四日、武州大相模の不動大聖寺に居たる禅僧寿山和尚参りて、蕎麦を出しければ、初のほどは汁かけて喰ひけるが、後は汁かけずに喰ひける。汁はきらひかと問へば、イヤ好きなりと云ひつゝ、汁はかけざりき。帰りて後思ふに、汁の中魚味あるかと疑ひしなり。出家はさも有りなん。」と司馬江漢の自伝『春波楼筆記』に記しているごとく、寿山は司馬江漢を訪れたこともあった。

 大聖寺の末寺三覚院(旧三蔵院)が青柳にある。この寺の本堂の天井に花鳥画が描かれているが、この絵の作者は酒井抱一だと伝えられている。事由は、この寺の別当であり名主であった源蔵が文政十三年に三覚院の天井を寄進した際、たまたま河川を愛でて散策のついでに当寺を訪れた酒井抱一に描画を依頼したところ快諾を得たのだと伝えられている。落款や年代等から推察し、抱一の絵と確定できるものはないが、琳派系の優れたものであることに異論はなく、直系の子弟の作品かとも推定されている。

 酒井抱一(一七六一~一八二八)は、名を忠因(ただなみ)・文詮といい、号を濤花・両華庵などと称した。姫路城主酒井忠仰(ただもち)の次男に生まれたが、長じて江戸に出、俳諧を馬場存義や晩得に師事し、絵画は尾形光琳の画風を継承した。諸芸達しないものなしという万能者であった。抱一の越谷地域への来遊は、旧家に残る書簡や作品から、また谷文晁や大聖寺等の関連から容易に考えられるところである。

 このほか越谷地域に関係のある画人には、瓦曾根中村家に瓦曾根溜井の風景画を残した細田栄之や、文晁の弟子渡辺崋山等がいる。細田栄之は名を弥三郎、号を鳥文斎あるいは狩野栄川院といい、喜多川歌麿に師事し、美人画はとくに評価が高い。天明期から寛政期に活躍した浮世絵の大家であり、文政十二年に没している。