寺子屋は、江戸時代から明治五年(一八七二)の学制施行まで、庶民の教育機関として広く利用されていたものである。ことに江戸時代も中期以降になると、在郷の一般農民も、商品流通の農村への浸透による影響をうけ、読・書(よみかき)・そろばんを必要としたので、幕府や領主の指示やその保護がなかったにもかかわらず、自然発生的に数多くの寺子屋が設けられていった。
越谷地域の寺子屋の実態をあきらかにできる史料は未だ発見されていないが、筆子中によって建てられた記念碑や墓碑などによって、ある程度寺子屋の存在を知ることができる。たとえば、増林定使野の梅香院の墓地には、増林村島田与市ほか筆子六六名によって、嘉永二年(一八四九)六月に建てられた当院第二七世法印祐清の墓碑がある。すなわち祐清は、寺子屋の師匠でもあったことがわかる。さらにこの墓碑にならんで同じく筆子によって明治元年(一八六八)に建てられた法印保栄の墓碑がある。この碑銘によると、保栄は文化八年(一八一一)下野国足利郡山下村の普門院住職中島俊長の二男として生れた。弘化元年(一八四四)増林村梅香院第二八世を襲い当院に定住したが、寺務のかたわら先代祐清に引続き子弟の教育にあたった。その入門者は、増林村をはじめ近隣村々から一〇〇余名集まったとある。明治元年四月、年五七歳で没したが、これをいたみ、増林村滝田文左衛門ほか一二名の筆子によって墓碑が建てられた。この基碑には、「むさし野の ちくさに宿る月かけも はかなくきゆる 風のしら露」という保栄の辞世とみられる和歌が刻まれている。
また増林上組の墓地には、筆子中によって建てられた文政二年(一八一九)五月の「前永年□□大和尚禅師」と刻まれた墓石があるので、この禅師も寺子の師匠であったろう。大吉の徳蔵寺墓地にも、当寺第一二世意照院青山光永居士の筆子中による明治二年の墓碑がある。この僧侶は明治元年の廃仏棄釈の際還俗したので法号が僧籍ではなく俗人の戒名になっているといわれる。この墓碑には大吉村小林文左衛門ほか九八名の筆子が刻まれている。
さらに、瓦曾根の照蓮院住職梅原賢快は、その碑銘によると、明治元年に照蓮院住職を継いだが、明治五年の学制施行まで短い期間であったが多くの子弟を教導し、その徳に感化された者は少なくなかったという。なお賢快は学制施行後引続いて公立学校の訓導に任ぜられたようである。
このほか弘化二年に没した西新井の西教院第二四世住職瑞誉、明治八年に没した同院第二五世住職秀随、嘉永五年に没した蒲生の清蔵院住職快真、明治三十七年に没した増林の林泉寺住職諦誉、明治三十年に没した船渡の無量院住職泰山など、僧侶による寺子屋師匠が数多い。
また僧侶ではなく、村吏が寺子屋師匠になっている例も少なくない。たとえば培根学校を創設した東方村の中村義章、小沢豊功の門人であった上間久里村の上原治郎右衛門、門人一〇〇余名を教えたといわれる西方村の斎藤徳行、増林村の榎本教義、登戸村の浜野富右衛門などが挙げられる。
さらに、医師が寺子屋師匠になっている例は、越ヶ谷町の岩松元旦をはじめ、蒲生村の中尾良智、瓦曾根村の伊藤太庵などが確認されている。このうち中尾良智は、天保八年(一八三七)足立郡高畑村に生れたが、幼時より学を好み、岩槻の中尾某や太田錦城について儒学を学んだ。氏の生家は家業が医業であった関係から医術を父に学び、安政四年(一八五七)蒲生村の医師中尾宗庵の嗣となった。以来医業のかたわら寺子屋を設けて子弟の教育につくした。これらによって僧侶・村吏・医師が越谷地域の当時の代表的な寺子屋師匠であったことがわかる。
このほか身分は不明であるが、寺子屋の師匠であることが確認できるものに、筆子中によって墓石が建てられている文政元年に没した原田宝路、蒲生村の遊馬峯右衛門、小林村の田村美広、大房村の黒田半五郎、大相模の石川富則などが挙げられる。さらに三野宮香取神社境内にある安政五年の天神の祠には、筆子中として三野宮村坂巻巳之助以下三七名の名が記されてあり、師匠とみられる一学という人の「神垣に 春はとなりや 梅の華」という句が刻まれている。増林中組天神社境内に建てられている文久元年の歌碑にも、榎本安美ほか筆子一七名が記されており、師匠とみられる舎楽という人の「あかるさを くらく過ぬるくやしさよ 雪にほたるの 学なくして」の歌が刻まれている。また嘉永三年九月に小供連によってたてられた越巻中新田稲荷社境内の「菅原荘」と刻まれた碑も寺子によるものであろう。
さらに越巻中新田薬師堂墓地の、元治元年の句碑には、筆子大塚平三郎以下一二〇名の名が記されており、師匠とみられる薫休居士の「砧(きぬた)うつ 里の遠さや 花曇」の句が刻まれている。七左衛門観照院の境内にも明治元年に建てられた句碑があり、これにも筆子として野口八郎右衛門以下三八名の名が刻まれている。したがってこれらの地域では、いずれも当時寺子屋が開かれていたことはたしかであろう。
このほか恩間新田と大場の境にあたる畑地には、明治三十一年に建てられた公爵近衛篤麿纂書による鈴木昇月の碑がある。この碑文によると、大場村の農民鈴木与右衛門は、近隣の子弟を集め、寺子屋教育を行なっていたが、与右衛門の没後その子昇月がこの寺子を受継いだ。そして昇月が師匠になってからは、さらに集まってくる子弟はますます多くなったとある。この碑を建てるにあたり、かつての昇月の門下原房五郎をはじめ、一〇〇余人の寺子から募金がよせられている。
このように当地域の寺子屋の師匠は筆子中による墓碑や記念碑などによって数多く確認することができる。