教科目と教科書

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越谷地域における寺子の入門者数とか教科目の実態については、ほとんど不明であり、わずかに周辺の草加宿の〓(おおい)家の寺子屋史料によってその一端が知れるだけである。これによると、嘉永元年から慶応三年までの二〇年間に、〓家の寺子屋に入門した子弟は一九三名、このうち男子が一四二名、女子が五二名である。そして寺子科目表によると、科目は「読物」」「読物・算」「手習・手跡」「手習・算」とに分かれている。なかでも手習・手跡の科目をうける者が九四名と全体の約半数に近い。つぎに算を習う者が五〇人で全体の約二六%、つぎに手習・算を学ぶ者が四二名の順となっており、読物と読物・算を学ぶ者が少なかったことが知れる(第51表)。したがって手習・習字が中心科目であったが、これは単に字を上手に書くというだけでなく、書きながら読むことを兼ねていた。また手習は墨の摺り方、姿勢のあり方を通して、しつけを身につけるねらいももっていた。当時の人々が日常生活や社会生活上必要とする知識や道徳を、手習を通して学びとらせるのが寺子屋教育のねらいであったようである。そのためにさまざまな教科書類が工夫された。

第51表 〓家寺子科目表
年号 入門数 科目
読物 読物・算 手習・手跡 手習・算
弘化5 1848 10 (2) 1 3 6 (2)
嘉永元
2 1849 6 (2) 1 (1) 5 (1)
3 1850 2 2
4 1851 2 2
5 1852 3 1 2
6 1853 6 (2) 4 (1) 1 (1) 1
安政元 1854 7 (3) 6 (2) 1 (1)
2 1855 15 (1) 6 6 (1) 3
3 1856 15 10 5
4 1857 4 3 1
5 1858 7 (2) 4 2 (2) 1
6 1859 8 (3) 1 3 3 (3) 1
万延元 1860 7 1 2 3 1
文久元 1861 6 (1) 2 3 (1) 1
2 1862 12 (4) 3 8 (4) 1
3 1863 11 (2) 1 8 (2) 2
元治元 1864 26 (11) 1 1 3 15 (9) 6 (2)
慶応元 1865 18 (8) 1 12 (6) 5 (2)
2 1866 13 (5) 3 2 (1) 8 (4)
3 1867 15 (6) 15 (6)
20年 193 (52) 2 5 50 (1) 94 (39) 42 (12)
1.04% 2.59% 25.90% 48.70% 21.77%

注()は女子

 教科書は「いろは」や数字からはじめ、名頭・村名・国尽・諸証文・諸往来物・四書・五経へと進むのが普通であった。越谷地域の寺子屋で使用したと思われる教科書類としては、平方の宇田川家に手習本・世話千字文・農家用文章・菅家文章・武家諸法度・江戸方角などの写本が、東方の中村家に国尽・用化名頭・四体唐詩選・三体論書帖・皇朝三字経・斎家録序文などの写本が、七左衛門の井出家に世話字往来・庭訓往来・幼童教訓書・近郷村名などが伝えられている。このうち「近郷村名」(傍点は地名、カッコ内は現在の市町名――筆者注)は次のようなものである。

    近郷村名

 東の方ハ大相模(越谷市) 真大山大聖不動尊 見田方・南百・飯島(越谷市)や 伊原(越谷市)の刈穂麦塚(越谷市)にほして附なん千疋(越谷市)か 積し垣尾の柿木(草加市)に 別府・四条(越谷市)や八条(八潮市)と 雲井の名にや紛ふらん 篠葉(草加市)の雨に青柳(草加市)の 枝を流すか館野堀(草加市) 伊草(八潮市)久く松の木(八潮市)や 千とせ 波寄小作田(八潮市)に むれゐ遊ぶ鶴ケ曾根(八潮市)――以下略――

 これは、寺子屋の教科書として広く使用された国名・地名を記した「国尽」の地方版であるが、越谷近郷の村名を巧みに連ねた面白い作品である。手習を通して、いかに日常生活に必要な知識を身につけさせたかを知る良い手本である。

 なお、寺子屋や私塾は明治五年の学制の施行とともに全面的に廃止され、国民皆教育をめざす小学校教育に切りかえられていったが、東方の中村義章のように学制にもとずく公立学校の教員になり、引き続き児童の教育にあたった寺子屋の師匠も多い。各地の寺子屋教育は明治の学制を受け入れる基盤を培っていたわけである。