学問・文芸の地方への波及とともに、道中宿場を中心に、在郷庶民のなかからも、すぐれた地誌や記録を編さんする者が多くあらわれた。越谷地域ではその一人に福井猷貞があげられる。
猷貞は明和六年(一七六九)越ヶ谷宿大沢町の旅籠大松屋六代福井平兵衛猷政の嫡子に生れた。福井家は安永三年(一七七四)十一月、越ヶ谷宿本陣会田八右衛門没落にともない、跡役本陣に推されたが、このときは諸般の事情からこれを辞退し、安永九年十一月にいたって本陣役を引受けている。天明三年(一七八三)一月、大沢町に大火があり本陣も全焼した。幕府からの類焼拝借金下付の遅延などから、まだ本陣再建の途上にあった同年十一月、猷貞にとっては祖父にあたる福井家五代の当主権右衛門猷真が没し、続いて翌天明四年一月、父平兵衛猷政が祖父の後を追うように四三歳で没した。このため猷貞は一七歳の若さで福井家七代の当主を継ぎ本陣役を襲った。
猷貞は本陣経営に専念するかたわら、「越ヶ谷瓜の蔓」「大沢猫の爪」「越ヶ谷町鑑」「大沢町鑑」などの地誌をはじめ、「往還諸御用留」「御用留」など、交通史料や触書史料などを数多く編集した。その著述の目的は、文人としての趣味的な編集によるものでなく、むしろ越ヶ谷宿の健全な発展を願う郷土愛意識からの発想に基づくものであったろう。
これら猷貞著述書のなかでも、「越ヶ谷瓜の蔓」と「大沢猫の爪」は注目に価する地誌である。両著とも両町の成立過程の考察からはじまり、町名や小字・耕地名などの由来から町勢の要覧などを記述している。さらに猷貞が力を注いで調査を試みたとみられる町民の人口動態は貴重なものであり、宿場住民の構成やその動態を知るうえに重要な手掛りを与えるものである。また「大沢猫の爪」の巻末には、〝変異〟という項目が設けられており、大沢町で起きた主な事件が記録されており興味深いものである。この両著は、ともに未定稿であり、猷貞一生の調査をかけて補筆完稿しようとした様子がみられる。猷貞はその完稿を待たず文政五年(一八二二)二月九日、五四歳で病没した。法号を賢照院恭与猷貞居士と称し、大沢照光院墓地に葬られている。
このほか猷貞の著になるものに「往還諸御用留」などの交通史料集があるが、これらにはいずれも〝福井書物〟と記されて整理されているので、これらは本人自身の覚書というよりは、むしろ交通関係にたずさわる者への参考史料として、後世の人の為に書留められたものであろう。いずれにせよ猷貞は越ヶ谷宿における当代の優れた文化人の一人であったと言えよう。なお猷貞著述本のうち、「越ヶ谷瓜の蔓」「大沢猫の爪」、および「往還諸御用留」全五冊のうち抄録一冊は、『越谷市史(四)』に収録されてある。