江沢昭融

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大沢町の事歴を扱かった「大沢町古馬筥」というすぐれた地誌がある。これを著わしたのは大沢町の江沢昭融である。昭融は、大沢町の世襲名主江沢家に生れたが、その生年や没年は不明である。

 昭融の父は一楽を号した昭鳳であるが、昭鳳は一説によると、狂歌や絵画に秀でた当時の文化人越谷山人ではないかともいわれる。文化十一年(一八一四)、昭鳳は大沢町光明院墓地に、貞寿院という人の追善の供養碑を建てているが、これには一楽翁の雅号で、「漕よせて 波の産(うめ)るや 蓮の舟」の狂句を刻んでいる。いずれにせよ昭融は、父の豊かな文才に影響されて育った文化人であることに違いない。

 さて「大沢町古馬筥」の成立年代は、この著書の冒頭の序文に、天保十一年(一八四〇)九月と記されているので、一応この頃の成立とみられるが、後年の追記とみられる朱書の記事がみられるので、これも未稿本であったかも知れない。その序文のはじめに「越沢にあらゆる故事雑談、古石の口鄙に遺りしを、なにくれとなく其儘書つゝり、又古き文ともの中よりえり出して、いささかの考をのせ一冊にとはなしぬ」とあるように、越ヶ谷・大沢に関するさまざまな言い伝えや、古老の話、あるいは古文書の類から選んだものに若干の考察を加え一冊の本にしたという。これには掬月亭子朗と記されているので、照融は掬月亭子朗の雅号を用いていたとみられる。

大沢町古馬筥(愛知県西尾市岩瀬文庫蔵)

 本書の内容は、「古事記」などによって武蔵国の成立や、「万葉集」にあらわれる埼玉村の考察、さては「三代実録」などを引用して武蔵国氷川明神や国分寺の事歴を述べているので、その学問の広さは多岐にわたっており、相当な見識を備えていたことが知れる。ついで新方領の事歴や大沢町の事柄などを項目別に編集し、全編二四〇数項目に及んでいる。このなかには食売女や食売旅籠の話、湯屋や富くじや芸者や相撲興行の話、そのほか大沢町の諸事件などが織りこまれており、読物としても興味のあるものである。ことに越ヶ谷宿の伝馬機構やその機能、あるいは用水諸組合などの機構を知るには好箇の参考書になっている。

 その著述の目的は、冒頭の序文によると、「素より文のかさりをのそき、只俗談ありの儘真偽を論せす筆を走らす事なれば、誤の多きは後〻是を補い、かならずしも他に見することなかれと 爾言」とある。すなわちこの著書は、後で誤りを直し補筆していきたいので、他人にはみせてはいけないといっているので、著者はこの書を公けにすることを考えてはいなかったようである。しかしすぐれた価値のある著書であることに変りはない。この「大沢町古馬筥」も全文『越谷市史(四)』に収録されている。