内藤家の記録

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越ヶ谷本町に居住し三鷹屋の屋号で通っていた内藤家に、文政九年から明治元年までの全三冊からなる記録書が残されている。これは一般の人への供覧を目的に書かれたものでなく、筆者自身、もしくは子孫のために書残された日記風の覚書である。

 内容を整理すると、主に内藤家の家事を中心に扱った記事だが、家事とかかわりあった町内の出来事をはじめ、越ヶ谷市(いち)相場における米を中心とした諸物価の書留、さては国事情報や生活に直接関係のある幕府通達などの書留等々、多様な記事がおりこまれている。そこからは、三鷹屋内藤家の交際範囲や商業経営の一端は勿論、宿役人の性格やその動向、または水防・警防・救恤などの自治活動、あるいは町の風俗・習慣などの生活様式、さらには幕末期における幕府の動向やそれに対応した越ヶ谷町の情勢など、激動する社会の世相を目でみるように知ることができる。またこれによると、当時の越ヶ谷宿の商人は、国事の情報をいち早くつかんでおり、それ相応に高い識見をもっていたことに驚かされる。これも文化教養の広さを示すものであろう。

内藤家記録の裏表紙

 おそらく他の商人もこうした日記風の覚書を書留めていたと思われるが、現在越ヶ谷宿の住民が書留めたもので、この種のものが発見されているのは、内藤家の「記録」三冊のほか大沢町鈴木家の「地震荒・水損困窮控」と、同じく大沢町秦野家の「大沢町浅間山集会日記」全一冊である。ともに越ヶ谷宿の庶民の生活を知るうえに貴重なものである。

 このほか当時の知識階級として村びとの教育者でもあった僧侶のなかには、綿密な日記を書留めていた寺院もある。たとえば平方村林西寺には、宝暦十年(一七六〇)から明治十四年までの間、欠年があるが、計二四冊の「白龍山日記録」が残されている。ほかに「住寺入院一式記録」などの記録書を合せると、実に三〇冊以上にのぼる書留類がある。また瓦曾根照蓮院・野島浄山寺・大相模大聖寺・大泊安国寺などにも、それぞれ多くの記録類が残されている。いずれも寺院の生活や、寺院と農民とのかかわりあいを知るうえで貴重なものである。