越巻村の産社記録帳

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これら寺院の記録は、正規な学問をおさめた僧侶の手になるものであるが、このほか一般農民の手になる記録も多い。たとえば産社(おびしゃ)などの祭礼帳もその一つである。ことに越巻村中新田の「産社祭礼帳」は注目してよいものであろう。

 この記録帳は、承応三年(一六五四)越巻村中新田に産社が勧請されて以来、現在なお書継がれているもので、文化三年から嘉永六年(一八〇六~五三)までの間、欠年はあるが三冊の綴帳になって残されている。はじめは祭礼執行の期日や祭礼に備えての集物、そして年番にあたった当番者の名が連記されており、この間検地や天災など特別な事歴が簡単に付されている。これが享保期(一七一六~三六)以降になると、年内に村で発生した顕著な事歴が豊富に収録されてくる。たとえば天明六年(一七八六)から翌七年にかけての記事には「七月十九日利根川堤其外元荒川堤、大相模葛西用水圦樋押流れ、其外一一ヵ所切、なお又上瓦葺綾瀬川上掛渡井押流、同日夜半に水押来り家内床上水丈三、四尺、田畑にて水丈六、七尺、田畑残らず水腐」とあり、このため「諸人飢に及び、朝夕食物等飴の粕、小麦のふすま、割の花等およそ銭一〇〇文に三、四升の直段なり、是もたいがいはかゆにいたし食候」と深刻な生活難を記している。

 また水害後の復旧普請には御手伝大名方二〇人「内当村御手伝松平大膳大夫様、菊川監物様」であったとあり、この普請には前金として金一六両二分を受取り「段々御普請出来方により金子受取り春中の飢を相助り申候」と書留めている。このように、そこに記録された事柄は、すべて村内農民の生活に直接密着した事柄であるだけに、当時の農民の意識や考え方を知るうえで大きな手がかりになるものである。たとえば災害関係・年貢関係・救恤関係・信仰関係・助郷関係など、その書かれた記事によってその年間を通じて、何がもっとも村人の関心のまとであったかを知ることができる。

 承応三年から享保四年までのはじめの綴帳は、享保五年に一括して書写されたもので、その筆跡は同一人の手になるものであるが、おそらく当番に当ったものがはじめから交代で書継いでいったものであろう。したがって一般農民の多くが、早くから読・書を習得していたものとみられ、想像以上に相応な見識をもって農業生産に励んでいたことが知れる。

産社祭礼帳

 以上みてきたごとく、越谷地域から発見されたこれら数多くの地誌類や記録類をとおして、一般庶民の文化的水準も改めて見直さねばならないように考えられる。