渡辺荒陽

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渡辺荒陽は名を政之助、諱を之望(しぼう)と称し、その雅号には荒陽・〓玉斎・時習翁・能曾丸・瓢の屋・花朝子・七福翁などを使っている。荒陽は宝暦二年(一七五二)、恩間村名主渡辺宜直の長男として生れた。渡辺家は源融の後裔であり恩間に土着したのは古い年代であるといわれ、江戸時代は代々名主を勤めた旧家である。

 荒陽の学問修業の経歴はつまびらかでないが、一七、八歳頃に村内の彦右衛門という者から算術を学んでおり、この頃から二〇歳頃までは、村に年三度ほど訪れてきた俳諧の蓼太門下の判者、周竹・万古・雷堂・漁文・連文・梅郎・文来らと交わっていたようである。ことに雷堂からは俳人になるよう強く勧められたが、荒陽は俳諧より武芸に志し、劔術師範戸賀崎知道軒の門を訪れたが長続きせず、諸方を遊学して歩いた。

 二〇歳頃粕壁宿関根治郎兵衛の七女登恵を妻とし、二男三女の父となったが、ほとんど家業をかえりみず、もっぱら漢学の修業に励んでいたらしい。寛政元年(一七八九)妻登恵が三五歳で没すると、その翌年、荒陽は長男と長女を家に残し一男二女をともない仕官を志して江戸へ出た。

 江戸へ出たものの仕官は思うようにならず、日本橋新右衛門町に時習堂なる塾舎を開いて門弟をつのって、その生計を図った。荒陽最初の著書「慎形篇」はこの頃の作といわれ、寛政五年頃須原屋茂兵衛によって出版された。江戸へ出て間もない頃、荒陽は、井上金峨の門人で反官学者の儒者としてまた天下の名筆として知られた亀田鵬斎の門人となったが、折悪しく荒陽の出府した寛政二年には幕府から異学の禁止令が出されるなど社会的条件の悪化もあって、鵬斎は地方へ下ってしまった。なお越谷市域に現存の亀田鵬斎の撰筆になる碑文は、神明下の素月を号した会田重昌の墓に見ることが出来る。

 寛政十一年(一七九九)、荒陽四八歳にして漸く越後高田侯榊原遠江守政令(まさのり)のもとに出入が許された。これは時習堂の門人榊原采女弁蔵の手引によったものであるが禄はなかった。享和年間、「論語時習」「論語時習翼」等を著した。荒陽の著述は四二種、出版は六種と数は多いが、内容的には高く評価されていない。難解な文字を好んで使い、努めて古文や異体文字を用いた。著書の半数は漢文の儒道関係、半数は和文の国学神道随筆といわれるが、今日その原本はほとんど所在不明となっている。

 文化九年(一八一二)榊原弁蔵と義絶した頃から荒陽は儒学者から国学者へと転向した。娘の多勢子、その養父村田春海、橘千陰、新興の平田篤胤、伴信友等の影響によるものと思える。このように荒陽は、六〇歳頃までは、一徹な儒学者として通して来たが、一転して国学者に転身した。

 文化十一年、平田篤胤の「気吹舎門人帳」に「榊原大輔殿家中 渡辺玄録之望(しぼう) 六十三歳」と記載されており、荒陽は六三歳にして、三九歳の篤胤の門人となった。荒陽の自伝では弟子として気吹舎に入門したのでなく、顧問として名を貸したにすぎないといい、また篤胤のような若者に学ぶものは何もないといいながらも、荒陽はますます神道的国学者の方向へ進んでいった。自らの手になる「渡辺家譜」にも

  耳順を越えて初て、皇国の人の儒を業とすることの非を覚り、教授を止めて退隠し、国典を読み、或時は誹諧狂句を玩び、和歌を詠じ、ますます皇国の道を講じ、一家の書教篇を著し、世の神道者、儒者、医者、天文者、国学者、其他雑技の徒を鞭ち、世俗の眼を覚す。

と記している。また文政四年荒陽古稀の祝宴を一族から受けた折、引出物にした自著「七福花朝壮譚」には、「神道は士農工商のたふとむべき事 儒道は浪人者の貴しとする事 仏道は物貰の貴しとする事」だと説き、仏道・儒道からの脱皮を表現している。

 子の弸(みつる)も文化十三年の「気吹舎門人帳」に「榊原式部大輔殿家中 渡辺源太左衛門 弸三十五歳」とあり、鎗術の塾舎を経営するかたわら、国学も学んだことが知れる。この後は榊原家へ指南役として仕官が許されたことや、父荒陽の篤胤との不和などから、深く国学を研究することはなかったと思われる。

 文化十三年、荒陽は、平田国学の基礎確立の因となった篤胤の鹿島・香取の旅行に随行し「かぐ島日記」の歌集を残した。荒陽は幼少期から俳諧・和歌の学習の機会は多かった。特に江戸へ出てからは信夫道別・橘千蔭・村田春海・安田躬〓等と親交が深かったことから、作品の数も相当の量と推測される。

 吉蔵新田中山氏所蔵の和歌に、天保六年八五歳の荒陽が能曾丸の号で

 われはもや うきねの花の 浮ぬなは うきくさながら 根はたえすけれ 八十五翁 能曾丸

とあり、また翌天保七年一族の会宴の折、子や孫にと記念の著書「神(かむ)明憑(がかり)談睫逎鏡(まつげのかがみ)」を与え、和歌を残している。

  児らがともに栄えゆくを見て、一たびはよろこび、一たびはかなしみてよみけり 妹とわれうゑし撫子(なでしこ)花はさけどひとりし見ればおもひかねつも 八十八翁 能曾丸

 天保八年には、荒陽のいやいとこ(弥従兄弟)に当る、浅草福富町二丁目の富商池田屋市兵衛こと稲垣成斎宗輔が積立金よりの御貸付請取証文碑を建立した折、荒陽は碑文と歌を記るしている。

  こかねより しろかねより なさけあるひとこそは世の たからなりけれ 万葉家中興加茂県主真淵門 楚平 北越高田藩蠹 八十七翁 あやめすき九とせといふ年親月 〓玉斎書

碑は宗輔の生家瓦曾根村の照蓮院末寺最勝院観音堂境内に建てられているが、右に見るように荒陽は加茂真淵の門下と称している。

 荒陽と右の池田屋の関係は種々あるが、荒陽の仲介による三両借金と増刷りとの一件がある。あとの山崎長右衛門の項でくわしく述べるが、この増刷り一件をめぐって荒陽と篤胤は離別し、平田門人伊介の仲介から池田屋とは別に越ヶ谷の商人門人と篤胤の関係が生まれるという機縁が生じた。

 荒陽は、天保九年二月朔日八八歳の生涯を閉じた。法謚は〓玉斎荒陽玄録居士、本所牛島の長命寺に葬られた。

渡辺家・稲垣家・中村家関係図