平田篤胤への経済援助

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篤胤が地方門人獲得に力を注いだのは、平田国学の伝播はもとよりのことであるが、門人より経済援助を乞うためのものでもあった。入門と同時に納める束脩の他に、地方門人のグループへは、教科書である篤胤の著書を必要とすることから、出版費助成という形で、世話人を通して寄附金を集めるのが普通であった。

 越ヶ谷門人は山崎・小泉・町山の三名でグループを成していたが、この越ヶ谷門人に対して、

 

  平田大人著神代系図近々すり出しニ相成候ニ付、共御地御門人方江内談ニ則平田世話人伊助と申仁差遣し申候。尤先日市右衛門様、善兵衛様江は、御咄し申置候間、右方々より御承知も有之哉候。右系図之儀仕立ニ相成、金六両ほと不足ニ而差丈ニ相成候ニ付、御地御門人方江御無心差上申候、大かた貴君様へは、別段御出精相願可申哉ニも候。何卒無余日返金為致申候間、御聞済外之様子御談合可被下候。伊助、市右衛門、善兵衛より、御承知之上奉願候。先は右之段申上度、如此ニ御座候。

 

なる要請がなされた。右の平田世話人より山崎篤利宛の書簡に見られる通り、出版助成の名目で三人で六両の調達が依頼され、また経済的に豊かな篤利には別段の援助を乞うた。というのは、一人二両宛という均等割ではなく、グループ内で能力に応じて負担し、総額が割当額になればよかったことを示している。

 このように平田地方門人がグループで出版援助、また篤胤の著書を入手する手段として、共同で資金を調達している例は少くないが、伊吹舎日記より数例をあげれば、

 

  文化九年八月廿五日 上総大高より金子五両入書状来る。

  同十一月十一日 銚子宮内主水使に末家明石八兵衛と云人来書状并金七両弐歩到来。

  文政十二年十二月五日 三州吉田三人より玉襷彫刻料金五両、書状添到来、下総宇井出羽守より書状并木内連願書到来。

 

と、各地方門人も越ヶ谷門人と同様の組織がもたれていたことが知れる。

 こうして平田国学―伊吹舎―は、庶民門人の経済的・組織的な援助のもとに大きく発展していったのである。とはいえ門人の増加につれ、門人の経済的状態も、学問への熱意も一様でなく、何両といったまとまった出費の困難な者も少くなかったこうした。経済的に困難な者については、「今年も社中彫刻掛銀あり、竹内、上杉度々廻りに出る」といった出版費の掛銀制度による出資法もとられた。