山崎篤利の活躍

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篤利は、集団としての援助と共に、門人一個人として篤胤を援助し、平田学成立に尽力した意義も、伊吹舎発展の上で見逃せない。篤胤が鉄胤に宛た書簡の中で、「世の為、人の為にト千辛万苦、言語道断の苦みしツツ書ヲ作リテ、仁者のカゲニテ板ニホリ、云々」と記していることにも、経済的有力門人―仁者―の力がいかに大きかっったかが伺える。

 伊吹舎庶民門人にあって、こうした〝商人門人〟と呼ばれる門人が、文化八年十月北川真顔の紹介で入門した。即ち「駿河国府中江川町 銕屋 柴崎十兵衛直古」と直古の紹介で翌月入門した「駿河国府中江川町 三階屋 新庄仁右衛門藤原道雄」をまずあげ得る。柴崎・新庄両者と篤胤の援助関係は渡辺金造著「平田篤胤研究」に記載されているところである。

 文化八年以来、篤胤への有力経済門人であった柴崎・新庄にかわって、文化末年頃より、山崎長右衛門篤利が台頭した。従来の気吹舎門人が五両・一〇両の出費といえば精一杯であったのとは異り、つぎの平田篤胤の借金証文にみられるごとく、約三〇〇両もの大金を山崎篤利は調達できる門人であった。

     借用申金子之事

  一金弐百九拾六両也 文字小判也

    但利足之儀者壱割

  右は此度御厚意を以て、古史成文三巻、古史徴四巻共、彫刻致し、且仕立迄之入用として借用申処実正也。返済之儀は、最初御約束申候通、右本売渡之金子ニ而、元利御勘定御引取可被下候。万一為金子返納に能はず候は、板木不残取揃、貴殿方え御引取り摺立、本書肆え御売渡被成、其利分にて元利相済次第、板木者此方え御渡可被下候。尤此度摺立相済候上は、直に板木御預ケ申候ても不苦候。此儀は御勝手次第に可被成候。為後日仍如件

         証人  平島伊助 印

         借用人 平田大角 印

 文政元戊寅正月 十日より追々

  山崎長右衛門殿

平田篤胤の借金証文

さればこそ、篤胤が手紙の中で、「学問にはおやづらに御座候へ共、内実は子の心得にて居候へば親とたのむ貴老」と一町人の篤利に頭を下げたのも、その本心は財布にあったからである。

 新庄道雄と篤利の平田門人としての位置の〝振り変り〟は文政二年「古史徴」出版に当って明確に現われた。篤胤は門人のうち出版援助や平田学発展の為に尽力した者に出版の序文、或は跋に姓名を掲げて、その名を後世に残すという手段の褒賞制度をとっている(束脩門人だけでも百人に達する)。従ってその名の出され方で信任度も知れるのである。勿論文章は篤胤が書くのであるが、表向きは門人の記載のように見せかけているのである。

 「古史徴解題記」もその例に従って出版に功のあった新庄道雄、山崎篤利の名が載せられた。ところがこれ迄有力門人の第一であった新庄は「古史徴のそへこと」に記名されたにすぎず、「古史徴序」及び「開題記目録大意」には山崎長右衛門篤利の名が掲げられた。それではと遠慮する篤利に「余りさし出しなること故名乗り斗りと御申故、阿の如く致し候事に御座候へ共、ならば長右衛門という名を出すかたよろし御座候、何れよく御勘考なされ、此次早々のたよりに御申こし可被下候かし、二十六日までに御さた無御座候ヘバ、相直し申候間左様御承知可被下」と、長右衛門の名を無理に入れて「御名を国中にかがやかさん」と述べている。これというのも三百両もの大金の出資に対する返礼からであった。

 篤利とてこの大金を容易く出資できたのではなく、養子の身であることから、まわりに気がねしつつの調達であった。そのため篤胤も折に触れては少しでも篤利や一家の者を安堵させるように、

 「あまり御苦労ばかり御きかせ申候故、またうれしき事を御きかせ申候、本庄の津軽様より、こう志やくに出てくれろと申込ミ有之候、これ甚タ吉事のわけ御座候、

 ○公儀御目付のはきき内藤周防守様より古学の趣意をかき出し候様ニとの事故、認め出し候。是大吉ニ御座候、其後いまだ御沙汰は無之候へども、ありがたき事に御座候、

 ○水戸様・越中様・はなは林大学様、其外きき道の所々にても当時平田ほどの学者はないとて、開題記の評判誠によろしく御座候」

とか、

 「我等年頃を申候所、其くらいの年にて、ケ様ニ学問の出来候といふハ、只今ニハ有まじ、何れ公儀ニても、此学問ハ御取り用へなさるべく、是世に御すて置キなされがたきとの事、かへすかへす御ほめなされ、追而御さた有べくとの事に御座候、一統誠にありがたがり大悦仕候。是も偏に御け故に御座候、なほ吉さた次第可申上候、色々様子よき事ども段々御座候也」

などの書簡を送る心遣いを常に行ない、平田学は公儀にも、また禁中でも採用される有望な学問であることや、篤胤自ら天下一の学者であると宣伝することによって、借金の取立てを防ぐ必要があった。

 この後も篤胤が篤利から金子の援助を受けていることは、気吹舎日記に見られるとおり、篤胤の越ヶ谷訪問が頻繁であることでも知られるところであるが、

 「十六日に山一又々御出のよし、其節金子十両御もたせ御こし可被下候」

 「もし御都合相成候ハバ、一夜どまりにて御出府被下候様ニ致し度候、さしたる用事も無れども、板も出来そろひ、又々何かの御咄しもしみ/゛\致し度候へば也、さて三十日ごろまでのたよりに、七両ばかり御むし被下候」

などの書簡で一層明らかにされよう。こうして現金による山崎家よりの調達は篤利の生存中は続けられた。

 山崎家より平田家への援助は、現金の他に生活上の物資や食品なども絶えず届けられていたし、また広い倉には衣類や版木なども預るなどの便宜を与えていた。篤胤よりの手紙にも、

 「夏もの二十品もたせ上候、御六ヶ敷ながら御しまひおき被下、冬ものみな御こしに入可候、もしみなもてず候ハバ、折瀬のはあとへまハ(わ)してもよろしと申事に御座候、

 ○かたぎぬ、はかまハせうぞくのいためがみえ、一しよにして御こし可被下と申事ニ御座候いたむから、

 ○はみがき上候、是ハよろしき品故、先日のよりハ高き由ニ御座候、

 ○ひきわりを少々山一へ云て下されとおばあ様被仰候、少しにてよろしく御座候、

 ○なつめ少々とらせ可被下候、くれ/゛\も善二郎ハ明日此男と一しょに御こし可被下候」

とある。

 また例年定期的に贈り届けられているものとしては、たとえば気吹舎日記の文政九年十二月十八日の項に「越ヶ谷より稲来る」とあり、篤胤の山崎家宛書簡にも、「例年の通り稲穂御願申度奉存候、御地より御幸便御座候ハハ、御事伝可被下候」などと記されているように、稲が山崎家より平田家へ送られていることも知られる。稲は祭詞用か、食用か明らかでないが、「稲穂」とあることから、後者は祭礼用と考えられ、前者は十二月であるから食用と見られる。

篤胤筆の掛軸

 山崎家には現在も当時からの大きい倉が残されているが、江戸の平田家は借り屋住いで転々として住所をかえていた。そのため上記書簡にも見えるように、季節外の衣類など越谷へ預けておいたことが知られるが、板木もまた、山崎家には数多く所蔵されていた。

 この板木の所蔵については、上記借金証文の文面に、金子返済不能の場合は、板木残らず取おさえても結構とあるから、山崎家に保管された板木は借金の代償として取ったと解されているが、そうばかりいえないことは衣類の例で考えても、また「一下りあと板木仕舞所、扨々こまり可被申候、今年は藤本弥内登り候間、頼み可遣、夫迄の所よろしく手配可被成、モシハ其元帰府迄進君へ頼み上野御蔵へ頼み、上野御蔵へ頼むこと出来まいか」なる手紙を鉄胤へ送っていることからも、板木の所蔵場所には苦労していた事情がわかる。こうした保管場所のないことから、山崎家へ板木が預けられていたと考えることも出来よう。気吹舎日記の「文政十年八月二十二日、越ヶ谷より帰る、御伝記の板、神拝式の板持帰る」、「文政十一年五月三日、市政を下谷へ遣ハシ金子受取、行徳がし八幡屋へ弓削氏への届物岡沢迄遣す、河村与三右衛門より金子持せ使来る、反畝より御出、越谷より板木来、番町服部九十郎殿家来平山名助といふ人入門也、青木勇来、堀越記兵衛来」に見られる板木も、越ヶ谷へ預けてあったものと解す方が自然であろう。

篤胤の短冊

 越谷門人の学習は、篤胤の出版物を購読することと、未公刊の著書を書写することが主で、篤胤は二、三日越ヶ谷へ来て添削するだけで長く逗留することはなかった。長右衛門の写本に「俗神道論弁」「仏道大意」「医道大意」「歌道大意」「玉のみはしら」等があるが、いずれも巻末に篤胤の朱書がある。奥書には「文政二年二月十七日山崎篤利が家に宿りて訓点を加へて与ふるものなり 篤胤花押」「文化(政か)二年二月廿日夕暮より廿一日朝まで篤利が家に宿りて、みつから訓点を加へて与ふるものなり 篤胤花押」「文政二年壬四月十七日篤利が家に宿りて昼後より訓点畢 平田篤胤花押」「文政二年壬四月十八日篤利が家に宿りて昼後より訓点畢 人に伝ふべからず 平田篤胤花押」等とあり、訓点には一夜かかったのもあれば、午後の半日で終ったのもある。

 開筵については江戸の学舎に招かれることは多かったが、越ヶ谷での開筵の記録はない。