篤胤夫人おりせ

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天保十二年(一八四一)正月元日、幕府は平田篤胤に対し「国許(秋田)へ追放、著述差留」を命じた。

門人五百余人、全盛期の篤胤にとっては全く突然の出来事であったが、幕命にしたがい早々国許秋田へ夫人と共に出立した。この夫人が平田おりせである。

 おりせが篤胤の妻として献身的に尽した功績は大きかった。また江戸を追われた以降の篤胤についての記録を残したことも、平田学研究にとって誠に大きな意義をもつものである。

 篤胤には三人の夫人が知られる。篤胤は秋田の大和田清兵衛の四男として生まれたが学を志して江戸へ出た。寛政十二年篤胤二十五歳の折、平田藤兵衛の養子となり、翌年、最初の夫人石橋織瀬を沼津から迎えた。織瀬夫人には三人の子どもができたが二人の男子は早世し、女千枝(鉄胤夫人)一人であった。織瀬は、病と貧しさの闘いの末、三十一歳の短い生涯を終った。篤胤三十七歳の時である。

 篤胤はその後暫く後妻を迎えなかったが、文政元年四十一歳の時易者の橋爪四郎の妹お岩と再婚した。だがお岩とは四ヵ月程で離婚した。

 三度目の夫人おりせを越ヶ谷から迎えたのはお岩と離婚した直後のことである。文政元年十一月十六日結納、十八日足入れ婚、十二月二日祝儀が行なわれた。篤胤四十三歳、おりせ二十七歳の時であった。

 おりせについての詳細は不明だが、日記や手紙から推測すると、おりせは寛政四年(一七九二)頃、越ヶ谷宿「とうふや」の娘として生まれた。篤胤門人山崎長右衛門・小泉市右衛門の労で縁談が成立し、長右衛門が親代り、市右衛門が媒妁人で婚儀が行なわれた。

 おりせの幼名については不詳、平田夫人となってからは本人の日記には「りせ」と記している。宛名には「折瀬」もあり、何れが正しいか確証はない。おりせには実子はなかったが、先妻の子お千枝(おちよう、織瀬ともいう)を実子と他人には語っていた程、妻としても母としても勝れた夫人と称されている。

 江戸払いとなった天保十二年、篤胤は六十六歳、おりせ五十歳であった。篤胤は江戸への帰府が許されないまま秋田の中亀之町で六十八年の生涯を終ったが、おりせは篤胤没後江戸へ戻り明治十八年まで長命した。法号を最誉珠光妙勝信女という。