すでに、第四編の第二章第五節「宗門改めと寺檀制度」で述べたように、江戸幕府は全国民をもれなく各寺院の檀那として編成した。
しかも一たん特定の寺院の檀那に登録された以上、その後は容易に離檀することは許されなかったが、幕府はさらに享保七年(一七二二)と享保十四年に離檀禁止の法令を公布してこれを強めた。ついで天明八年(一七八八)には、一家一宗の法令が出され、一家族のなかに異なった宗派に属す者がいることが禁止されたので、その家族は誕生から死後、そして子孫までも代々定められた同じ寺院の檀那でなければならなかった。
越谷地域の各寺院もこの例にもれず、それぞれ固定した檀家を持ち、葬式・祈祷・供養・配札などを行なったが、その多くは檀家の経済的な支持によって寺の経営がおこなわれた。
因みに砂原村前原組寛政二年(一七九〇)の「宗旨人別改帳」によって砂原村前原組住民の寺檀関係をみると、当時の前原組総戸数三八軒のうち二二軒一二二人が真言宗末田村金剛院の檀那、一軒五人が真言宗四町野村迎摂院檀那、一五軒八四人が禅宗野島村浄山寺の檀那であり、同じ村内の住民でもそれぞれ檀那寺を異にしていた。
また西方村明治四年(一八七一)の「宗門人別改帳」によって西方村住民の寺檀関係をみると、当時の総戸数一三七軒のうち、二五軒一一五人が真言宗西方村大聖寺檀那、七四軒四七七人が真言宗西方村安養院檀那、二二軒一一九人が真言宗西方村福寿院檀那、五軒二一人が真言宗瓦曾根村照蓮院檀那、一軒八人が真言宗東方村東福寺檀那、四軒二三人が真言宗西方村金剛寺檀那、一軒七人が真言宗別府村妙音院檀那、五軒三九人が浄土宗見田方村浄音寺檀那というきわめて入り組んだ寺檀関係となっている。これは一家一宗の原則にもとずき、転居しても近隣の場合は容易に離檀できなかったためであり、およそ江戸時代の村はこのような入り組んだ寺檀関係にあったのが普通であった。したがって一町一寺の特権を与えられていた越ヶ谷町の天嶽寺は特異な例であったといえよう。
いずれにせよこのように制度的にも住民と固く結ばれていた寺院は、宗門人別改を扱っていた関係から、檀徒の転居や婚姻あるいは奉公などに際しての人別送り状に証明を与え、旅行などにも手形を発行した。すなわち戸口の異動にはすべて寺の証明を必要としたのである。いわば江戸時代の寺院は戸籍の取扱い所でもあったわけである。