不二道信徒と幕府権力

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 古利根川や元荒川の流域には、ずいぶんと浅間社が多い。これは富士信仰、すなわち駿河・甲斐国境にそびえる富士山を関東平野から拝する信仰であって、中世末期に勃興したと考えられる(第三編第四章第二節)。ところで、江戸の市街には近世後期にこの富士信仰が盛大となったのであり、越谷地域もその影響を受けたことはいうまでもない。富士の霊を信じる人々は、毎年のように夏には富士山に登拝し、その前後の諸行事は厳粛をきわめ、平常も「富士講」を構成して、相互に行法・祈祷などを通じて信仰を深めあった。かれらは江戸のあちこちに、富士塚、つまり模擬の富士山を築造して、これにも定期的に登拝式を行なったが、その数は幕末に至るまでには数一〇ヵ所に達したというからものすごい。

 富士信仰の高まったのは、身禄(みろく)行者とよばれた伊藤伊兵衛(食行(じきぎょう))の富士禅定(せんじょう)によるところが大きい。修行の極致に達した者が、生きながら土中に埋められることによって、その生命が超人的に無限に存続するものであるとする信仰を「入定(にゅうじょう)」というが、この伊藤食行が享保十八年(一七三三)に富士山頂の烏帽子岩(えぼしいわ)で行なった富士禅定は、世人に強烈な感銘を与え、以後富士講は熱狂的に高まった。かれが身禄と号したことは、この世に地上極楽をもたらす弥勒(みろく)の世の実現に向かっての突進を意味し、人との思慕と崇敬とを集めたのである。

 ところがこうした弥勒(みろく)への思慕が現実の社会生活の矛盾とぶつかるとき、ただならぬ空気を醸成するのも止むを得ない。天明ごろの社会不安はこの点ではげしい雰囲気をつくり出させることになり、幕府権力の側では富士講の動向に穏かならぬものを感じ取ったと見えて、寛政七年(一七九五)それへの取締りを令するに至った。すなわち同年の町触(ぶれ)に、(以下引用資料のルビは筆者が付した)

  (上略)近年富士講と唱(となえ)、奉納物建立と申立、俗にて行衣(ぎようえ)を着、鈴・最多角(いらたか)の珠数を持、家々の門に立、祭文を唱、或(あるい)は護符・守等を出し、其外前書同様之儀いたし候者有之(これある)趣相聞(きこえ)、不埒之至に候(下略)

とある。

 このようにあるはげしさをともなった富士信仰を、内面的に深化しようとした人が出た。それは越谷に近い鳩ヶ谷(現鳩ヶ谷市)の出身たる小谷三志である。かれは、通称を庄兵衛といい、信仰上の名は禄行(ろくぎょう)という。おそらく鳩ヶ谷町の住人で、屋号を河内屋といった。早くから富士信仰に帰依したが、よい師をたずね求め、文化五年(一八〇八)江戸の山谷に伊藤参行(さんぎょう)(本名花形浪江といい、京都の出身)を訪ね、富士信仰の教義を伝授された。

鳩ヶ谷小谷三志の墓石

 かれは富士に登拝すること一生に一四二度に達したほどの熱烈な行者であったが、同時に、富士信仰を日常の道徳に結びつけることをはかり、とくに孝道を重んじ、自分の主唱する道を、富士そのものからいくらか引はなして、「不二道」とか「不二孝」と称した。

 かれの「不二孝教」と題する文章のうちに、

  不二孝と申せば、講中を取立(たて)金銀を取集め、大々講・神酒講中などのやうに参詣するにもあらず、不二孝とは二つなき孝と教へる。此五体揃ひたるからだを御あたへ被下(くだされ)候かりの父母様の高恩を説き教へ、夫より段々と其元へたづね入り、日月仙元(せんげん)大菩薩、元の父母様の御恩、天子将軍様の日夜の御高恩に預り奉る所の御恩礼申上るなり。

とある。当時民間にさかんに行なわれていた庚申講なども、かれは教義上の結びつきを強調し、暦日を記すにも、庚申を「孝心」と書きかえ、「文政十一年のとし孝心の月」とか「天保四年巳八月孝心」などと表現し、また越谷から西方一〇キロにあたる野田(浦和市野田)の地に、孝心と刻した石碑を立てその背面に

  あしきこと見ること入らずきくことも いはぬ心がすぐに孝心

という自作の歌を記したという。

 この三志の弟子に、大杉村(現越谷市大杉)百姓庄七という者があり、弘化四年(一八四七)六月、同志(江戸の町人)田十を通じて大目付深谷盛房を平川門外で待ち受けて、直訴(じきそ)の状を提出させるという事件を起した。

 直訴というのは、既に寛政元年(一七八九)八月、幕府の紅葉山御庭方同心を勤める永井要右衛門という者の隠居(父であろう)徳左衛門(照行)が、自分は富士山烏帽子岩に参寵しつつ、妻そよをして直訴状を老中松平定信に提出するという先例があった。やがて富士山御師のもとから食行身禄の遣書を提出し、それは後に御師に返還され、今後越訴などするなと戒められて、その後はどうということもなかった。おそらく、社会の不安に際して、幕府の当事者にこの富士信仰に目覚めさせ、人民のためによい政治をしてほしいとの願望がほとばしったための行為なのであろう。

 富士信仰から不二道へと内面的発展をとげた後の、前回を上廻る熱烈な直訴が、この百姓庄七の場合である。かれは訴状の中に

  天保壬寅年改暦の詔を拝読仕候に、食行(じきぎよう)(富士講中興者)の教に合符仕り有之(これあり)候。元祖御伝への如く、天地の御恵みも人気の昔に替りたるも、御時節到来と相見へ候。此時に至て人の行ひは、天気推(おし)移り候えども気の持ち様(よう)教へなきゆゑにや、右に申上候御大恩義をも弁へず唯々楽み好み、遊民を見習ひ、睦間敷(むつまじき)を忘れ和合の念を退し、猶(なお)道に信仰の念薄く己(おのれ)の勝手のみ行ひ自ら罪に沈むる、欲敷(歎敷(なげかわしき)の誤りであろう)事と存じ候。(中略)山本(富士山麓をさす)御師抔(など)の教を受け加持祈祷抔致し候類(たぐい)にては決して無之(これなく)候。只四民安堵の御教にて御座候。

とあって、世を憂え善政を希求するこころの熱烈なものが流露している。

 末の署名には「願人に代り 田十」、「差添人大杉村百姓伝蔵」の名が記されているけれども、直訴の当人は大杉村の庄七である。庄七は、前の寛政度のとよく似て、「天地の大願に御座候故、駿河国富士郡人穴にて断食大行」の最中だったのである。

 深谷盛房は訴状を受取り、二人(田十と伝蔵)を本郷の自邸にとどめ、説諭を加えて放免したが、かれらは三日後には再び湯島天神前にて深谷に訴状を捧げた。そこで深谷は勘定奉行牧野成綱に引渡した。牧野は二人に、訴状は地頭代官を経たものでなければ受理できぬ旨告げたので、二人は、庄七とはかった末、翌七月になって、村役人の添翰を付け、庄七の名で、代官青山禄平に訴えた。

 牧野はこの訴状を受理し、庄七、田十、および相談に乗った下総国猿島郡砂井村(現茨城県境町砂井)の百姓利兵衛の三人を奉行所に召喚し、不二道について取調べを行ない、ことの「法義」に関する故をもって翌年(嘉永元年)寺社奉行本多忠民が掛りとされ、十数回にわたって取調べが行なわれた。その間、不二道・富士講の当事者たち多数の者が喚問をうけ、翌二年九月に、富士講の禁止令が出された。もっともこれら富士講不二道の人びとに対する処罰は全然無かった。

 この時当事者たちの請書(うけしょ)が作成されたが、そこに署名した人びととその住所を見ると、おおよそ不二道がどの地方に濃厚であったかを察することができる。大杉村の庄七のほか、越ヶ谷宿問屋彦右衛門地借治郎右衛門が居り、足立郡鳩ヶ谷宿、埼玉郡久米原村(現宮代町久米原)、同郡河原井町(現菖蒲町河原井)、葛飾郡八子新田(現吉川町八子新田)があり、下総国の猿島・相馬・豊田・結城・香取の諸郡、常陸国河内郡、それに江戸の町々である。おおむね利根川・古利根川・鬼怒川の沿岸であったということができる。(この項、井野辺茂雄著『富士の信仰』によるところが多い。)

 以上述べたように、越谷地域から世の行末を憂えてミクロの信仰に生きんとした農民・町人が出たのであったが、幕府権力の前にその叫びも沈黙せしめられるほかなかったのである。