越ヶ谷久伊豆社

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久伊豆神社は、本県内では主として元荒川と綾瀬川にはさまれた地域、ならびにその上流では忍領を上限に、一部古利根川と元荒川の間にはさまれた地域に集中的に分布している。ことに越谷地域ではいずれも元荒川を区切り、野島・小曾川・砂原・袋山・四町野・東方・別府の各村など、元荒川西岸の自然堤防上に点在しているのが特徴である。

 これは元荒川東側の新方領に広く分布している香取神社と明確な対象をみせている。その数は風土記稿によると、越谷地域で一二社を数える。このうち代表的な社は越ヶ谷の久伊豆社である。当社は四町野村に属し、越ヶ谷・四町野・瓦曾根・花田・谷中・神明下・七左衛門の七村総鎮守として崇敬をあつめていた社である。

 その創立年代はつまびらかでないが、騎西の久伊豆社(現玉敷神社)、岩槻の久伊豆社とともに古代に創建されたものといわれる。このほか忍の久伊豆社は、その縁起書によると、文治四年(一一八八)の四月、忍の領主成田五郎長景が創建している。成田氏は平家追討のため東国から出陣した武士団の一人であったが、途中伊豆の三島明神に参詣して武運長久を祈願したところ、戦功抜群の神護を得たので、とくに三島の明神を当地に勧請し、久伊豆雷神として祭祀したと伝えている。しかし埼玉東部の一部地域に分布する久伊豆社創建の由緒は、伊豆国と関係があるらしいというのみで、いずれも不明である。

 鎌倉幕府編さんの『吾妻鏡』建久三年(一一九二)の条に、大川戸御厨(みくりや)と、久伊豆社神人との争いが記されているが、地域的にみるとあるいは越ヶ谷久伊豆社のことであったかも知れない。また天正十九年(一五九一)十一月、越ヶ谷久伊豆社別当の四町野村迎摂院に、徳川家康によって与えられた高五石の寺領は、久伊豆社の神域に与えられたとも伝えられている。当社は江戸時代を通じ、人びとの崇敬をあつめていただけに、遠路特別に参詣に訪れる人もあったであろう。ことに幕末の国学者平田篤胤は、越ヶ谷町の門人山崎篤利を訪れたときは、当社に参詣したものとみられ、越ヶ谷久伊豆社の由緒をしたためた「考案書」を著している。

 これによると応仁元年(一四六七)、伊豆国宇佐見の領主、宇佐美三八郎重之が当地域を領知したとき、越ヶ谷久伊豆社に太刀を奉納するとともに社殿を再建したという。また文政三年(一八二〇)七月の日付のある。〝天ノ岩戸開〟の画は、篤胤が画工山里貞由に写させて奉納したものである。さらに昭和十六年県文化財天然記念物に指定された当社境内の藤の大木は、下総国流山村の平田篤胤の門人が奉納したものであるといわれ、樹令二〇〇余年のものである。

篤胤奉納の「天之岩戸開之図」(越谷久伊豆神社藏)

 このほか越ヶ谷会田出羽氏の子孫会田平兵衛資武が、文政十年新道と外御庭の阿茄獅子一対、それに御神橋の三口を当社に奉納している。このうち石の阿茄獅子一対は今でも社殿の前に建てられたままで、神域の風致を高めているし、越ヶ谷町をはじめ近隣町村の有志によって天保十二年(一八四一)に奉納された鉄の大天水桶が神域の重みを加えている。これら数多い寄進物がよせられているのは、人びとによって久伊豆社の霊験あらたかと信じられていた証左であろう。ことに当社境内の碑文によると、文政九年五月の旱魃には、越ヶ谷町太々講中が当社で雨乞祈願を行なったところ、忽ちにして慈雨がもたらされたとある。

会田資武寄進の阿茄獅子

 また内藤家「記録帳」によると、安政五年(一八五八)のコレラ大流行の際、越ヶ谷町では当社の神輿を町内に設けた御仮屋に安置し、悪魔退散の祈願を執行したが、当地域からは一人のコレラ患者もでなかったという。

 しかしこの神輿の渡御はめったに行なわれなかったとみられ、同じく内藤家の「記録帳」によると、天保六年九月十日の久伊豆社祭礼には「此度六拾年ぶりにて御神輿町方へ渡る」とある。六〇年ぶりの神輿渡御とあって、本町・仲町・新町の越ヶ谷三町では、屋台を設ける町内もあり、山車を出す町内もあり、町内の亭主・若衆はそれぞれ揃いの着物を誂(あつら)え、手踊などの催しもので終日賑わいをみせたという。