越巻の「おぶしゃ」(一)

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越谷市の南西部に大字越巻(現新川町)というところがある。ここは綾瀬川に沿って中新田と丸の内と、二つの小集落が展開し、中新田は川からはなれた沼沢地帯にも飛地ふうに集落を分立させている。これら三集落を合せて越巻と称するが、『新編武蔵風土記稿』には、七左衛門村枝郷(えだごう)と肩書している。すなわち近世初期の開発で七左衛門村が成立したのち、さらに沼沢地帯や綾瀬川沿岸にも開発が伸び、その結果ややおくれて成立した「分村」であるという意味である。

 この越巻に「おぶしゃ」の神事とその組織が、近世・近代を通じて(現在まで)守られているのは、村落の伝統を時代の変動を超えて持続させて来たという点で、人をして深く感動させるものをもっている。

 越巻は前記の如く、中新田と丸の内とに分れているが、どちらにも稲荷社が存在する。『新編武蔵風土記稿』によると、その一つは越巻の鎮守で慶長十七年(一六一二)の勧請、もう一つは元和元年(一六一五)の勧請であると記している。開発の順序や後述する祭礼帳の記載から考えて、前者が中新田の稲荷、後者が丸の内の稲荷であろう。

 この中新田と丸の内との双方に「おぶしゃ」の神事と組織が伝えられているのである。まず中新田の方からしらべてみよう。

 中新田の「おぶしゃ」の当番が交代で保持してゆく帳簿の表紙には、墨くろぐろと、

 

   武州埼玉郡越ヶ谷領越巻村

     産社(ウブシャ)祭礼帳  中新田

  承応三午年ゟ明和二乙酉迄百十二年

    享保五年庚子此帳ニ写

 

と書かれている。承応三年(一六五四)から書き始め、文化二年(一八〇五)まで書き継いで居り、その後しばらく中断があって、嘉永七年(一八五四)から別帳に仕立てたものがあって、それを現在でも書き継いでいる。明和二乙酉迄云々と記したのはあとからの書き込みで、もとは享保五年云々だけがあったであろう。すなわちこの帳簿は、おぶしゃの神事当番のうけわたし状況を承応三年以後書きついだ古い帳簿が古くなっていたんだので、享保五年(一七二〇)になってすっかり書き写し、その時にこの表紙もつけ、以後ずっと書き継いだものであろう。

産社祭礼帳

 おぶしゃとは何であろうか。ここには「産社」という字にウブシャと振り仮名しているが、これは関東一帯に行なわれてきたぶしゃ神事に敬語を付して呼んだものがもとの形であるにちがいない。「ぶしゃ」は、もと弓の神事で、多くは新年に村の行事として行なわれ、弓の作法がすたれた後も宴会だけは固く守られ、その宴会を「おぶしゃ」または「おびしゃ」とよんでいる場合もある。新年の弓の儀式とそれを終えての饗宴とは、日本古代以来の村落行事の代表的のものであり、その一部に武家階級による「流鏑馬(やぶさめ)」など騎射の法が組織的に興って来たので、それに対応する意味で歩射とよんだのが、ブシャないしビシャの起りである。後世は、奉射だの武射だの備謝だのといろいろの漢字を宛てるようになったが、要するに年頭に際して村びとが集まって行なう弓神事とその後の饗宴なのである。

 越巻村がなぜこれをおのが村の重要神事としたかは定かには知りがたい。しかしほぼ推定される点は、中新田も丸の内も、村の守護神として稲荷社を勧請したからには、毎年の祭礼として二月初午の日を重んじ、したがって春のはじめの神事を選びとろうとして、ここに歩射(ぶしゃ)の式が採用されることになったのではないかということである。

 この帳にいうように果して承応三年(一六五四)に始めて「おぶしゃ」を行なったかということも明らかではない。その年あたりから組織だったものに定められたのであろうか。その定めとは、祭礼帳の冒頭に記しているように毎年秋に戸主は籾二升、家族員(男女とも)は各籾一升を出し、年があけて初午になる頃戸主は銭十文か二十文(この額は年の豊凶なみにより村で協議して決定したのだろう)、家族員は各三文を出し、この総額でもって、ぶしゃ祭りを執行するということである。且つ毎年祭り当番が二名ずつ当ることになる。

 第55表が明暦二年から寛文六年までの一一年間の当番表(実際に営んだ)であるが、市左・多左の組は、明暦二年に営んだあと六年後に、清右・与左の組は同三年に営んだあと四年後に、勘左・助右の組は同四年に営んだあと二年後に、茂右・三郎右の組は万治二年に営んだあと四年後に、それぞれ当番を受けている。八人の村人が二人ずつ組んで、順番に当番を受持つなら、四年に一度廻ってくる計算だが、必ずしもそのようになっていない理由は判明しない。しかし、それにしても一定の当番基準を考えていたらしいことは、その後の経過でも知れよう。すなわち、勘佐・助右の組は四年後には勘左・理右となっており、どうも理右衛門は、助右衛門が死んだあとの後継者ではないかと推測され、さらにその次の年、多左・与左の組があらたにできて受持ったということは、市左衛門・清右衛門の両名は死んであとつぎが幼少であったか、あるいは退転してしまったか(両名ともこの後当番として現れない)のいずれかと推測されよう。

越巻中新田稲荷社
第55表 中新出産社祭礼当番
年次 明暦二 同三 同四 万治二 同三 同四 寛文二 同三 同四 同五 同六
当番
市左衛門
多左衛門
清右衛門
与左衛門
勘左衛門
助右衛門
茂右衛門
三郎右衛門
理右術門
助左衛門
与左衛門
多左衛門

 こうして長い間二人ずつ当番を営む例が続いたのち、享保五年、これはこの帳簿を写し直した年であるが、当番三人という例が発生し、爾後時たまそれが現われ、宝暦二年(一七五二)から当番四人となる。当然中新田部落も発展し、家数も増したと考えねばならない。

 この前後からしきりに、その一年中(二月初午に当番を受けて次の年の初午に当番の仕事を果たすまで)に起った大事件を書き込むことが行なわれている。元文四年の頃には、「正月九日暁越ヶ谷町大火事」とあり、翌五年には「信州善光寺如来江戸開帳」とある如きである。宝暦七年には「五月大水、田畑共実のり三分一通、御年貢三分一程上納」と、深刻な様相を描き出しており、こうした村にとって切実な記載がしだいに増して来る。このおぶしゃ祭礼帳を社会経済史の史料としても活用できる所以(ゆえん)である。

 おぶしゃの日は二月初午を長らく守ったのだが、享保十一年(一七二六)から、正月廿六日が定例となり、明治維新までずっと同様である。

 このようにして中新田の当番記録は、中新田部落の歩みを、その喜びと悲しみの両面にわたって記録してゆくようになる。当番といえば大した事もないようだが、この場合おぶしゃという神事の当番なのであるから、本質は、近畿地方なみにしきりと見られる頭屋(とうや)制の如きものと酷似するはずである。祭礼が無事執行されるかどうかは、村びとの重大関心事であり、主としてそれは頭人(とうにん)(頭屋)の心がけや潔斎によって左右されると信じていた古風な感覚を後の世までとどめた例ということができよう。

  頭人(とうにん)の記録に、社会の大事件を書きこんだ例は近畿以西にはしばしば見られるようである。管見では、文明年間以来書きついだ福井県三方郡宇波西(うわせ)神社の頭人帳、元和年間以来書きついだ島根県鹿足(かのあし)郡六日市町沢田の「大元(おおもと)申し」の頭人帳などがその代表例である。