越巻の「おぶしゃ」(二)

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つぎに越巻の中のもう一つの部落、丸の内の場合をしらべてみよう。ここの当番引継の文書の中に天和三年(一六八三)以降の「いなりまつり入用帳」がある。冒頭に、

  一、家壱軒ニ付、籾三升ツゝ、其外若者子共男斗籾(ばかり)壱升ツゝ

  一、家壱軒ニ付、銭三拾弐文ツゝ、其外若者男斗銭拾六文

    男子共をもい入五文十文

とし、つぎに百姓一六人の名を列ねている。この一六人が丸の内の全員であろう。中新田の「男女ともに各三文」とあったのにくらべ方式上の差異があるが、総額についていえばほぼ同規模であろう。

 貞享五年(=元禄元年、一六八八)の「入目覚(いりめおぼえ)」には

  一、さかな何ニても其時分勝手次第有合

  一、牛房(ごぼう)    一、かみ 壱状(帖)

  一、大こん   一、こぶ 少々

  一、とうふ   一、かつをぶし壱ツ

  一、たばこ

     御ふせ五拾文

  右之通り年々秋中ニ御とうばんノ処御あつめ可被成候

とあり、元禄五年(一六九二)の時は、さし銭が九〇〇文、集めた籾が八斗八升あり、その籾の中六斗七升は飯にして消費し、残りは売却して銭にしたので、さし銭ともに一貫二七〇文となり、これが祭礼の諸費用にあてられたとある。いずれにしても、当時の村の素朴な祭礼がみえるようだ。

 日取は、天和三年の時は二月十一日であるが、貞享五年には二月三日、それが元禄四、五の両年はいずれも正月廿四日とあり、元禄七年は正月廿六日である。(これは祭り当日でなくて、決算に当る翌日かの日付かもしれない。)

 当番ははじめ二人だが、元禄七年には三人の名を記している。中新田と同様、年代が下れば人数を増したことであろう。集め銭も、文化十一年(一八一四)には、氏子中相談の上、亭主は五〇文、男子は三二文と、天和に比べれば相当な高額を決定している。

  筆者が丸の内へ、おびしゃの近代の方式を聴き取りにうかがった時、その時の当番のかたのお話では次のようであった。今は二月二十五日に行なっている。農地改革までは、おびしゃ田という田地が一反二畝あって、それを年番(ねんばん)(当番)が耕作した。年番はもとの五人組を以て宛て、そのかしらを「伍長」とよぶ。おびしゃの経費の中で一斗を神官に出すきまりで、もとは伍長が出してきたが、最近集め米から支弁することにした。一軒五合として二八戸位なので、一斗四升集め、銭の方は会費として五〇〇円出す。神前に約五合の高盛り飯を供える。これはあとで氏子がわけて食べる。宴の終る頃頭(とう)渡しの式をする。あらかじめ、にんじん、ごぼうを削って剣のようにたくさん立てた飾り物を製作し、その根もとを、これまで厚くたまった年番会計帳の束でぐるりと巻き、外からしばって、これを次の年番に渡すと、これが当番の受渡しになるのである。その年度分の帳簿記入は当日はできないから後日行なう。

越巻丸の内稲荷社

 この越巻の「おぶしゃ」に類似した慣行が下間久里にもある。戦前までは「蓬莱」という大げさな飾り台を、若者たちが当番宿へかつぎ込むことをした。頭人帳も約二〇〇年位前からのものが現存する。(書き始めに年号を記さないのでまだ年代が判明しない。)平方でも旧暦正月ごろの「おびしゃ」が今も盛大に行われている。これらは江戸時代の風俗の名残をとどめたものといえるであろう。