真言宗寺院と村びと

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真言宗寺院は村びとたちとどのような関係にあったであろうか。さいわい安政二年の「照蓮院年中行事」(越谷市史(三)九一六頁)というよい史料があるので、それによって考察してみたい。

 一年の始めは元日、檀家一統(といっても実際は代表的な人々であったろう)が年始に寺を訪れると、寺では重詰(きんぴらごぼう一重、坐禅豆一重)とを出して、茶呑茶碗に冷酒をついで飲ませ、もてなす。

 二日には檀家の有力者瓦曾根村中村彦左衛門家(旧家で名主)の当主と息子とが年始に来る。当主から青銅二百疋、息子から同百文を贈られる。

 四日には住持が年礼に村を廻る。挾箱(はさみばこ)と進物配りのための釣台(つりだい)を出す。したがって供一人と、人足八人が要る。人足は門前の四軒(照蓮院とは伝統的なつながりがあったのであろう)のほか二人と子ども二人、これらは前日に約束しておく。人足は朝早く出てくるので、餅雑煮(ぞうに)をたべさせる。出発してまず中村家に赴く。餅と吸物と酒が出る。これを頂いて、つぎに村中の家々を廻る。それで昼食を人足たちに食べさせ、さらに他村の檀家や門末(末寺や門徒の寺)にまで廻り、帰寺して夕食、茶飯(ちゃめし)・けんちん汁で酒二升を供や人足に飲ませ、太儀(たいぎ)料として半紙一帖ずつを与える。

 五日、六日に門末の僧が年礼に来たとき茶だけを出す。(廿一日の御影供(みえいく)の時ふるまいをするからである。)

 十五日、中村家の大般若(だいはんにゃ)のことで、大聖寺(だいしょうじ)から頼みに来るので、参上する。(中村家は西方の大聖寺とも深い結びつきがあるので、こうしたことも生ずるらしい。)

 十八日、正・五・九月の十八日は、最勝院(同村の門末寺院)で観音護摩がある。正月に限り、船持仲間(川船がしきりに通航していた時代である)が集って舟中安全(航行安全のこと)の祈願があり、金百疋を船持仲間中から持参する。観音護摩札は一二〇枚を配り、これは前日に世話人(孫左衛門・新六・五郎左衛門・重右衛門の四名)にあらかじめ頼んでおく。

瓦曾根最勝院

 廿一日、初御影供(はつみえいく)(真言宗で弘法大師の画像に供物をし祈祷することを御影供といい、三月が中心である)で、門末・村役人・門前四軒・隣家三軒を招待する。献立は次の如し、

 

   皿  海苔 紅葉大根 ふきのとう

   汁  醤油 すまし あられ豆腐

   平(ひら)  揚豆腐 板昆布 せり

   猪口  菜ひたし

   坪  ごま煎ごぼう

   硯蓋(すずりぶた) くわゐ 青海苔ごぼう 百合 いもがら 焼豆腐

   取肴 麦飯 香の物

 

村役人中と中村家と酒屋八右衛門とが各二〇〇文、その他八人の者が一〇〇文ずつ持参する。五郎左衛門からはこの日餅三つを供える。そのうち一つは翌日送る(どこへか不明)習わしである。

 この日午後村の老女たちの念仏がある。煮しめ(揚豆腐・にんじん・ごぼう)を出してねぎらう。

 廿三日 松伏村宝珠院の大般若(だいはんにゃ)に出勤する。

 廿五日・廿七日・廿八日 大聖寺(だいしょうじ)の大般若に出勤する。

 二月初午 稲荷祭りで、村中として法楽(読経・祈祷)をたのみに来る(布施二〇〇文)。前日に新六が「年分之賽物」(一年間に献げられた賽銭か)をもって来るから、この新六に、酒一樽(代価二分二朱ていどのもの)を、稲荷への供物として渡しておくと、これを新六が取計らって村中への振舞とする。この酒の代は、稲荷免(稲荷面とあるが免が正しい。免租地のこと)の作徳(さくとく)(小作料の如きもの)で宛てるのである。

 十五日 涅槃講(ねはんこう)。門末が出仕する。東福寺(小林村にある照蓮院の末寺)からは三〇〇文、他は二〇〇文、灯明料として持参する。料理の献立は左の如し。

   平……筍、みつば、くわゐ、椎茸、ゆば  汁……菜青味、豆腐

   猪口…うどの胡麻合え          飯・香の物

 午後から村の老女たちが念仏に来るので、煮しめもの(菜びたし一皿)を出す。

 三月十二日 東福寺の御影供で、出張して理趣三昧(りしゅざんまい)の導師を勤める。

 廿一日 正(しょう)御影供。門末が出仕すること涅槃講の時と同じ。

 四月一日~八日 魔多利神(またりじん)の秘法を修して、結縁(けちえん)(血脉か)を竹筒に入れて配る。越ヶ谷・大沢の両町に広く配るのだが、世話人には本町の舛(ます)屋善蔵と茂千(もち)屋忠八との両人が当り、餅一斗と菓子四〇〇文分とを供物として供えるので、その一部を配り物とする。(マタリ神はあるいは摩多羅神か。それならば中世の天台寺院にて祭られた神である。)

 八日 花田村の西円寺(照蓮院の末寺)から薬師護摩を依頼して来たので出向く。(卯月八日は全国的に薬師の縁日とされた。)

 廿四日 孫左衛門家で仁王経読誦。布施は年末に二朱くれる。

 廿五日 平左衛門家で仁王経読誦ならびに守護(夏の初めの祈祷であろう)。分家四軒分を一度に行なう。

 廿八日 中村家の仁王経守護。

 五月十八日 観音堂護摩を執り行ない、村中安全の札を配る。

 六月 中村家へ暑中見舞として葛(くず)を三〇〇文ばかり贈り、中村から寒晒(かんざらし)を三袋暑中見舞に贈られる。

 七月朔日 大施餓鬼の立札を、おけ八・角仁・かじやの三軒それぞれの前に立てる。

 十四日 棚行(ぎょう)(ふつうは棚経と書く)。

 十五日 迎摂院(四町野村)の施餓鬼。

 十七日 花田の西円寺、大沢の光明院、大房の浄光寺、七左の観照院にそれぞれ施餓鬼あり。

 十八日 東福寺(小林村)の施餓鬼。

 廿日 当院の施餓鬼。大施餓鬼の場合は、前日午後から村方世話人が集まって、村中軒別に米銭を集めに廻ってくれる。当日は僧が二〇人余り出勤する。色衣衆には三〇〇文ずつ、黒衣衆には二〇〇文ずつ布施を贈る。供・小供は五〇文ずつ。門末は灯明料を持参する。料理献立は次の如し。

   平(泡雪)   汁(とうがん)

       香之物   猪口(百合 こんにゃく)

   坪(ごま煎 茄子)   茶飯

                  法要後あんころ餅四〇〇文重箱で出す。

                  酒は、大平(のっぺい 甘煮)六丁皿(茄子 さしみ)

右は僧たちへのもので、檀中は世話人にて献立をなし、施主はかまいなし。

 八月廿四日 仁王経守護あり。

 九月十八日 五月の時と同様観音堂護摩。

 十一月晦日 祠堂金(寺院が営む村方への貸付金)勘定。世話は村役人中であり、前日に触(ふれ)を出す。午後から村役人が集まって、取り立てた寄金のうち、三両を常香常灯明料として寺が受取り、あとは貸付ける。料理の献立は、大平(けんちん)、大皿(ごぼう・揚豆腐・里芋・にんじん・大根)丼焼菜、吸物椀にふろふき大根を盛り、酒とうどんを出す。数は八〇。

 十二月十八日 正月仕度として、門松七組と〆縄を用意し、表門・玄関・川岸稲荷・寺内稲荷(境内の稲荷社)・下弁天・観音に張る。半紙一〆(ひとしめ)・糊入(上等な紙)百枚・扇子二本入りの扇子箱一つ・日向半切二百枚・付木(つけぎ)などの年始物(代価金一分)を用意する。

 寒見舞は、中村家へ堅炭一俵(五五〇文くらい)、嘉久善へ羊羹(二〇〇文くらい)。中村家からは甘酒来る。

 歳暮としては、中村家から「御膳糯(もち)」(上等の糯米)二斗贈られるので、同家主人へ銀六匁・茶一斤、奥様へ煙草二斤(二朱くらい)を贈り、宝来山(二〇〇文ずつ)を与市・権左衛門に与える。

 中村家から月牌料を二俵届けて来た時は、人足酒代二〇〇文を与える。

 十三日はすす払い、頼んだ十人ばかりへ、茶飯けんちん・酒二升、祝儀として手拭一筋ずつ与える。

 年末(小の月は廿五日、大の月は廿六日)の餅搗き。本尊へ三升のお供(そなえ)一つ。頂供は三升、両大師へ二供、神棚へ三供、年神へ一供、河岸稲荷へ一供、院内稲荷へ一供、東光院本尊へ二升供一つ、荒神へ一供、大黒天へ一供その他。

 東光寺本尊へ餅一供・青銅二百文、灯明料として同寺留守居へ贈る。

 最勝院留守居へ、正五九の守り配札の太義料として、四月に二升、八月に二升、十二月に三升贈る。

 照蓮院の本寺である葛飾郡金町村(現東京都葛飾区金町)の金蓮院へ年始として青銅三〇疋を使僧を以て贈る。三月廿一日までにすればよい。すると本寺から使僧にて三本入り扇子箱一つ持ち来る。

瓦曾根中村家の廟所(瓦曾根照蓮院)

 中村彦左衛門家追善の際は、二つ法要を勤める。僧一〇人、門末有住から頼み不足の分は他門から頼む。導師に二〇〇疋、色衣に一〇〇疋、黒衣に五〇疋の布施が贈られる。

 春秋二度の彼岸入りの初日に午後から老女たちが念仏に来たらば、団子ふかし直し、煮染を出してねぎらう。

 

 以上が瓦曾根の照蓮院が幕末の頃一年間に営むべき行事を記したもので、つい長たらしくなってしまったが、これを通じて、真言宗寺院がいかに村びとたちの信望にかこまれて存在したかを理解することができよう。