浄土宗寺院の経営

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「白龍山日記録」には、この浄土宗寺院の経営ぶりを示す記事がかなり多い。もっとも日記録であって収支決算の帳簿ではないため数字は全然出て来ないのだが、交際関係(ことに同宗内)を通じて巧みに運営をはかり、有力寺院としての権威を保持するに努めていた趣きをいきいきと描き出しているといってよい。

 まず末寺のことであるが、同村内の崇源寺、備後村の称名寺・還到院、藤塚村の東国寺・阿弥陀寺などは頻繁に出てくる。しかしそれも本寺から気ままに手伝わすというのではなく、何らか一定の秩序のあったらしいことも推察される。

 法類としては、大松の清浄院住持とはすこぶる親密である。何かにつけ交流が計られているのが目につく。

 それに比して、越ヶ谷宿の天嶽寺とはあまり親密ではない。それにしても皆無ではなく、たとえば(同じ安政六年の)二月朔日には天岳寺(天嶽寺と同じ)住持が当寺を訪れて、再来年元祖大師六百五十回につき、この三月にその取越(とりこし)(前もって執行すること)法要を行ないたいと、協力方を申入れたことを記している。なおまた三月九日条には天嶽寺から使僧・世話人・供(とも)各一人が来て、当村に仏餉(ぶっしょう)袋を配って御遠忌の寄進を集めるよう協力してほしいと依頼して来たことも記す。この御遠忌法要は三月廿七日天嶽寺に於て無事執行され、翌月廿一日には礼として天嶽寺から金百匹とふろしきを贈り届けた。

 さてこの寺は格式も高いうえ、奥州街道から少し東に入っただけの所に位置するので、同宗の僧で立寄り一宿する者も多かった。江戸との交渉もなかなか多い。この(安政六年の)一年間に他寺と直接交流のあった(訪ねて来ただけのものの含め)寺を列挙すると、大杉(現越谷市大杉)の浄閑寺、江戸山谷の道林寺、中田(古河の南)の本願寺、古河の一向寺、江戸駒込の天然寺、荏原郡北沢の森巌寺(院)、登戸(現越谷市登戸)の報土寺(院)、青柳村(現草加市青柳)の本願寺、桶川宿の浄念寺、東間村の勝林寺(洪水の時足留めとなり数日滞在したのはこの僧である)、江戸芝増上寺密順寮、舟戸(船渡)の無量院、増林の林泉寺、中里村西岸寺、内谷村崇蓮寺、椿村倉常寺、などである。一ヵ年でこれだけあるのだから、以てその盛況を知るべきである。

越ヶ谷天獄寺墓地

 林西寺では農業も営んでいた。田は小作に出しているが、菜種と大豆とを多量に収穫し、換金していることが、四月から五月にかけてと、八月との記事でわかる。菜種を畑あるいは田からこいで、寺内惣出のうえ人を雇ってまで連日種打(菜種茎から種子を叩き出すこと)を行ない、五月二日になって中野村の五郎左衛門の紹介で、長宮村(現岩槻市長宮)の油屋と交渉して、一両につき七斗八升の相場で売却している。そのあと、五月廿一日に、からし種三斗七升、菜種の二番打が一斗三升、と書留めているので、こうした収穫が多量にあったことがわかる。なお、くわしくはわからないが、九月から十月にかけ、「国蔵入みそ搗」「国蔵入小麦蒔」というのが見える。

 こうして林西寺住持は格式の高さと収入の豊かさを誇ることができたようであり、この年、年来の念願であった屋根の葺替えを行なうのである。九月二日に葺替の支度足場の木を伐り出し、十日には上の喜三郎その外名主たちへ縄の寄進方を申し渡している。但し、寄進は縄だけで、葺替の費用はいっさい住持が負担することときめたとある。十月朔日、伐った木のうちから本堂箱棟用の柱二〇本を大工源兵衛に渡す。廿七日になって不足したとて、八本追加を渡す。箱棟にするというだけでも大仕事なのに、気張ってそこへ金紋を上げることにする。廿八日中野村五郎左衛門を介して、菊桐の金紋三箇、差渡し一尺八寸のもの(一箇につき金壱両)を江戸へ注文する。もっとも金紋については住持に心配がないでもない。十一月朔日条に「万一後日公辺より御尋の儀これ有り候はば、先規有来(ありきた)りの由御答へ申上ぐべきこと専要なり。但しよくよくむつかしく候はば、取捨て申すべきのみ」と記している。清水(きよみず)の舞台からとびおりるような決意が必要だったのである。

 十一月十四日本堂箱棟出来上り、次の日から屋根葺きである。これに先立ち九月廿二日に内牧村(現春日部市内牧)へ辰五郎をやって山萱を注文させた(手付金二両)し、十月廿六日に川窪(平方村の小字)の万之丞を呼んで、葺替用の芦(古利根川畔から刈るのであろう)少々を注文(手付金二歩)している。こうして十一月後半は連日萱が運び込まれる。古利根川を船で運んで来るのだが、それだけでは間に合いかね、馬でも運ぶ。十二月三日には「昨夜中山萱にて内牧より積来り船人一宿」とある。船が着いたら、河岸から寺まで萱を運ぶのは寺内惣出で、人足ともども当ったらしい。葺師・大工も十一月廿七日には一日に三〇人雇っている。十二月に入ってもこれはつづき、十三日には「葺師共一同長々の疲れ、今日休」とあり、おしつまった廿六日ようやく完成した。総経費について、「檀方一切勧化等相頼み申さず、自財にて、凡そ葺師手間と山萱と大工手間と、扶持方殊に高直(たかね)につき、金百両余之総勘定に相成るべく候」と記している。

 林西寺は朱印高二五石を受けている。これは特権ともいうべきだが、当然幕府からたえず監督を受けている。数年に一度は朱印改めとて朱印状の検閲を受けねばならなかった。この年十月一旦朱印改が済んだのに、その後「御本丸御焼失に付、御城において御朱印写し焼失いたし又々写し差出し候やう御達し御座候」というわけで、これではやりきれないなどとは言っていられず、急遽、大松の清浄院や岩槻の浄国寺に連絡をとってふたたび提出する運びとなるのである。

 この葺替のはじまる頃、近くの月照院がひどくいたみ無住なのだからとて取崩しを決意している。(「今般取崩し、当山内へ引、再建、寺内末に致し候心組み」と記している。)そうしてほぼ半月かかって取崩しを了え、その跡に畑一反歩を開いている。

 田畑の小作については、十月十二日に、惣四郎(上(かみ)の惣四郎であろう)が自分持ちの田の検見を願い出ている。当年の収穫率を決定するための方法であろう。寺の年貢は、十一月十一日に月照院の田の分とあわせて金納している(金額は記してない)。

 当時朱印高を受けている寺院が、ほとんどやっていたようにこの寺も祠堂金の貸付を村びと対象に行なっていた。かつて天保四年には、困窮しているからとて暮近くになって急に村びとたちが元利とも返済を渋って、住持らをいらだたせたことがあった。けっきょく寺社奉行と協議して、組別に百姓と交渉をもち、どうやら翌年春に賦納することで治まったらしい。時代の潮(うしお)は当然のことながらこの村へもおしよせて来ていたのである。(この史料、表紙に「巳九月金銀貸借御裁許有無御触に付 利潤取立不納一件記録」とあり、年号を記さぬが、文中の寺社奉行の名から、天保四年十一月から翌年二月にかけてのものと判明する。)この安政六年には無事で、十二月廿三日、「什金利取立、村役残らず参上、例の通取立相済、夜に入り一同引取る」とある。什は什物・常住物などの如く寺の基本財産を意味する。