野島の地蔵尊

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越谷地域でもっとも霊験あらたかな仏といえば、西方大聖寺の不動と野島の浄山寺の地蔵とであった。前者は既に中世から勢威を有し、歴史上に顕著なので、ここには後者を述べる。有名な『十方庵遊歴雑記』には、この野島の地蔵のことが再度現(あらわ)れる。初度は文化十年頃(同書二篇上)再度は同十四年三月(同書五篇下)である。まず初度の記事から見て行く。

 浄山寺(曹洞宗)は、元荒川にかかる三之宮橋から西南約四町にあり、裏門は東に、表門は南にある。本堂は南向で十一間の藁葺き、堂内に入ると男女の一つ身の衣類がおびただしく吊り下げてあった。これは子女の無事に成長するよう願をかけたものであるという。

  寺記に曰(いわく)、野島山延命地蔵尊は、慈覚大師一刀三礼の作にして、霊験あらたに、(中略)摂化随縁の方便さまざまにして、或時は茶園に仏眼を損じ血の涙頻にて、門外の池水に御目を洗はせ賜ふ。(中略)池に住(すめ)るもろもろの鱗甲、一眼に盲(めしひ)たり、それよりして世に誰か片目地蔵と名付たり。就中(なかんずく)一切衆生の眼病を愈(いや)し賜はんとの誓願、殊に産婦のものには枕上(まくらがみ)に立せ賜ひて神符を与へ賜へば、立どころに安産し、或は神符を掌に握り又は頭上にいただき生ずる事、今現在人の見聞する処也。(遊歴雑記の文のまま)

このようにまことに霊験あらたかなので、門前の池の水を汲んで仏前で加持したのを竹筒に入れて信者に頒っていたという。

 つぎの文化十四年三月の時は、たまたまこの地蔵の開帳であった。そこでその賑わいぶりをこの書の筆致をかりれば、

  片鄙とはいひながら、群参する事、江戸に替らず、但し九分は近郷の男女にして、漸く壱分たらずは東武(江戸をさす)の風俗と見請(うけ)たり。境内狭からねど、小間もの人形見世(みせ)、飴や、菓子や、蕎麦(そば)や、団子屋、燗酒(かんざけ)の類(たぐひ)より、曲搗(きよくづき)の粟もち、独楽(こま)まはし、居合抜の歯みがき売、覗(のぞき)からくり、鼠の木札くわへて中り鬮(あたりくじ)に取らする、扨(さて)は書画の早書(はやがき)、奉納の義太夫、手妻(てづま)軽口の豆蔵まで、類を以て集りし程に、寺内人ならざる所なし。猶(なほ)村々よりの金銭・米・醤油・炭の寄進ものをはじめ、内陣の仏具類・水引・打敷・銅灯籠まで、おもひ/\の奉納もの夥(おびただ)しく、江戸よりも信仰の面々、或は地蔵尊の奉公人たる年限中の男女の児輩の奉納もの等、若干(そこばく)にして算(かぞ)ふべからず。

この通りたいへんな賑いを呈していたのである。