野島地蔵の出開帳(一)

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右の開帳はその地にあって本尊を公開するもので、いわゆる居開帳である。これに対して出開帳とて、他地へ出張して本尊を公開するのがある。いうまでもなく江戸は近世中期を経過するうちに、京・大坂をはるかにしのぐ大都会となってしまったのだが、その江戸の街中(まちなか)において本尊を出開帳させることが、しきりに行われた。越谷市越巻に伝わる「産社祭礼帳」の元文五年の項に「信州善光寺如来江戸開帳」と明記しているのは、この江戸出開帳がこの越巻村にまで喧伝されたはしりともいうべきもので、さらに安永七年の項に、

  信州善光寺本所回向院にて開帳、ならびに野嶋山地蔵尊湯島天神にて開帳、参詣江戸中群集す

とあるのを見れば、いかに評判であったかがわかる。

野島浄山寺

 この野島地蔵はこの七年を始として、天明四年-千住慈眼寺にて、同五年―湯島天神にて、寛政六年、文化十三年、弘化三年、同四年、以上いずれも湯島天神にての七回、江戸出開帳を行っている。比留間尚氏「江戸の開帳」(『江戸町人の研究』第二巻所収)によると、これは江戸出開帳をした地方寺院中実に第五位なのである(一位は成田不動、以下嵯峨の清凉寺、中山法華経寺、下野高田山、野島地蔵の順)。野島というより、江戸人にとっては越ヶ谷在といった方がわかりよかったろう。いかにこの地蔵が越ヶ谷の地名を江戸人に親しみやすくしたか、察するにあまりある。いまも野島の地蔵の境内には寛政元年七月として、「奉納 江戸湯島三組町講中」とあざやかに刻した石塔が立っている。

湯島講中寄進の錫杖塔(上が欠けている)

 なお浄山寺文書の「口伝書」によると、安永七年の江戸湯島天神社での出開帳には、参拝銭や奉納物が多くよせられたが、収支差引勘定では金二三〇両と銀二貫六〇〇匁余の収益であり、同じく天明五年(一七八五)の出開帳では、金五六両と銀一貫三〇〇匁の収益であったという。